篠原は、以前、河田と水沢と酒を飲んでいた時、河田が、「白川郷の中で一番おぞい(粗末な、劣った)のは加須良(カズラ)やな。加須良はおぞい中でもおぞいな。次は牛首、馬狩はその次やなあ」と言っていたのを思い出した。
秘境の白川郷の中でも最もイナカである加須良とはいったいどんなところだったのか。どれほどの秘境なのか、感じてみたいと思った。篠原は、富山の塩硝の館に行く前に、まずは加須良に寄ってみようと思った。
ところが加須良に行く前に、篠原は思いがけない人と河田の合掌の近くで会った。居酒屋ユキの常連で、そもそも篠原が白川郷に行くことになるきっかけとなった歯科医で版画家の吉行香澄だった。
歯科医院の方は夏休みを取って、近くの民宿に泊まって白川郷のスケッチをしているということだった。
居酒屋ユキでは、香澄と緑川の話に、篠原が間に割って入るような感じで緑川と話し込んでしまったのだが、その時は話が終わった篠原に、「ちょっと、篠原君。せっかく緑川さんとわたしが話しとったのに。無神経やね」面と向かって怒ったのだった。
三十一才で同い年なのに、なぜかいつも上から目線で、篠原を年下扱いしていた。白川郷で出会った時も、「篠原君、どうなの、ちゃんと仕事しとるの?」えらそうに言うのだった。
そのくせ、不愛想な白川郷には、まいっているようで、「この村、緑川さんはずいぶん褒めとったけど、ちょっと思っとったのと違って、つまらん。もう、帰ろうかと思っとる」
弱気なことも言うのだった。
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