でも、あの人はどれだけ私の思いに気づいていただろう。私がなぜ毎日のようにあの人を追い駆け、おすすめの本や映画を聞くのか、あの人は理解していただろうか。単純に世界史好きの生徒ぐらいにしか思っていなかっただろうか。

私はときどき、あの人の態度がひどくそっけなく感じることがあった。冷たいというのではない。あまりにも普通で淡々としているのだ。本来ならこれだけたくさん会話をしていれば、もっと打ち解けて、心を開いてくれてもいいはずだ。私にだけ笑顔を見せてくれてもいいはずだ。

でも実際は、冗談を言うことも、私に質問を投げかけることもなかった。いつも質問するのは私のほうだった。あの人はそれに答えるだけだった。私は質問されたらいつでも答える準備ができているのに。どこに住んでいるか、どんな家庭環境なのか、毎日家に帰ったら何をしているのか。

でもあの人はそうした私的なことは一切聞なかった。私にまったく興味がないかのように。だから私もあの人に私的なことは聞けなかった。私とあの人の間にはガラスのように見えない壁があった。あの人はその壁を自分も超えない代わりに、私にも超えさせなかった。あの人はあくまで表面的な関係を保とうとしているようだった。

冗談一つ言わないのは、素の自分を見せるのを恐れているからかもしれない。私は近づきたくても、その壁の前で立ち止まらざるをえなかった。その壁は絶望的なまでに高かった。そのすぐ向こう側にあの人はいるのに、私は壁を超えられなかった。

気づくと、あの人と顔を合わせることが辛いと思いはじめている自分がいた。壁の存在はあの人に対する思いが大きければ大きいほど虚しい気持ちを心に生んだ。どんなに本を読み、勉強しても、その壁だけは超えられない現実に気づかされるのだ。

いつまでも私は生徒の一人でしかなく、卒業するまでその関係は何も変わらない気がした。でも一方で、これ以上いったいあの人に何を求めるのだろうと冷静に思う自分もいた。いったいどこまであの人に近づけば気が済むのかと。

所詮、私とあの人は生徒と先生だった。どんなにあの人のことが好きだからといって、付き合うことはできなかった。近づくには限界があった。お互いの間に壁はあって当然だった。

もしかしたら、あの人がそっけなくするのは、私の気持ちに気づいているからなのかもしれない。高ぶる気持ちをこれ以上大きくさせないようにあえて壁を作っているのかもしれない。だとしたら、私はあの人にとって迷惑な存在だった。思いに気づいていないのはあの人ではなく、私のほうだった。

しかしと私は思った。どうして先生を好きになってはいけないのだろう。どうして好きな気持ちを抑えなくていけないのだろう。私とあの人は生徒と先生である前に人間だった。

男と女だった。好きだという気持ちが芽生えるのは自然なことだった。その自然な気持ちに蓋をしなくてはいけない理由などどこにもなかった。もっと言えば、あの人と付き合うことだってお互いが望むなら許されるはずだ。

【前回の記事を読む】私は薄情な人間なのだろうか。父と会いたいと思わないのは心が冷たいからなのだろうか。父は家を出て行った人、今の生活には何も関係がない人だった。

次回更新は1月3日(金)、22時の予定です。

 

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