私は次の日から、あの人が再び筆箱を忘れるのを期待して待った。授業が終わり、「ありがとうございました」と言ってから頭を上げたとき、真っ先に見るのは教卓の上だった。
もしあの人が筆箱を忘れたら、そのときはすぐ後を追い駆けて渡そうと思った。しかし、私の期待は毎日裏切られた。あの人はけして筆箱を忘れなかった。もちろんノートも教科書も。それどころか、一度忘れた教訓からか、最後に必ず荷物の確認までした。
それは私があの人と話すチャンスを失うことを意味した。忘れ物を届けに行って、「ありがとう」と感謝される機会も。あの人は二度と私にその機会を与えてくれなかった。そして、あの人が去った後にはいつも背広のすえた匂いだけが残った。
私はもっと先生に近づきたいと思った。できることなら言葉を交わしたかった。遠くから見ているだけで幸せだったのは昔の話だった。私はもうそれだけは満足できなかった。
あの人の顔をもっと近くで見たかった。あの人の匂いをもっと近くで嗅ぎたかった。あの人の言葉を耳の鼓膜が痛くなるぐらい近くで聞きたかった。あの人の存在を全身で感じたかった。
しかし、現実は何も変わらなかった。あの人はけして生徒との距離を縮めようとはしなかったし、話をするチャンスさえ与えてくれなかった。あの人は、はじめて会ったときと同じく遠い人のままだった。私はもどかしかった。何も変わらない現実が腹立たしかった。
もしあの人が筆箱を忘れなければ、私は近づくことさえできなかった。そして、そのまま高校の三年間はあっという間に過ぎてしまうだろう。
こんな寂しいことがあるだろうか。あの人に対する思いは体中から溢れているのに、それを伝えることもできないなんて。教壇に立っているあの人の姿だけが唯一の思い出になるかもしれないなんて。
こんな残酷なことがあるだろうか。私は耐えられなかった。現実を何とか変えたいと思った。あの人にもっと近づくために。もう一度言葉を交わすために。筆箱が再び置き忘れられるのをいつまでも悠長に待ってなんていられなかった。私はあの人が忘れ物をしないなら職員室に行く理由を勝手に作ってしまえばいいと思った。
放課後、私は「一緒に帰ろう」という友麻の誘いを断って、あの人のいる職員室に向かった。二時間前に授業で顔を合わせたばかりなのに、早く会いたいという気持ちがすでに抑えきれないほど大きくなっていた。
一方で、突然会いにいって迷惑がられないだろうかという不安も心の片隅にあった。今回は完全に個人的な動機だ。私は自我が表情に現れないように奥歯を噛んで頬を引き締めた。
【前回の記事を読む】教壇の机の上、忘れられた筆箱を、あの人の体に触れるかのようにそっと優しく触った。そこからあの人の手の熱まで感じ取れそうだった。
次回更新は12月29日(日)、22時の予定です。
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