第二章 小窓尾根
気象通報による予報は、入山直前とそれほど変わらないもので、今日一杯は好天、明日には一旦天気が崩れ、そのあとに疑似好天がおとずれるが再び冬型になり、しかもマイナス四十度という強烈な寒気を伴うといものだった。
「天気予報は、あまり変わってないな。まあ、明日の悪天はさほどでもないから行動はできるだろう。明後日の疑似好天が登攀チャンスだな。その後のマイナス四十度の寒気は、結構やばいから、明後日の行動中にどこまで行けるかで判断だな。停滞して粘って、寒気を何とかやり過ごすか、下山するか」と鬼島は言いながら、ラジオをザックにしまった。
そして「さて行くか」という鬼島の声とともに、川田も重いザックを背負った。
一,四〇〇メートルのこの地点からは、小窓尾根の稜線上を行くことになるので比較的傾斜は緩く、さらに昨晩のような雪崩の心配はない。樹林を掻き分けながら、先行パーティーの微かなトレースに沿って単調なラッセルを繰り返す。
先行パーティーのトレースはさすがによく踏み固められたとは言えず、鬼島と川田もワカンをつけてラッセルをしなければならなかったが、しかし昨日と違い腰まで潜る深雪を掻き分けるわけではないので大分楽だった。
その日は、これが冬剱かと思うくらいの穏やかな天気だった。樹木の合間から覗く赤谷尾根と北方稜線は、毛勝山と黒部の秘境へ向けてひたすらたおやかに稜をたなびかせ、背後に広がる紺碧の空とのコントラストが厳冬の張り詰めた空気を和ませていた。
また、反対側の剱岳方面は、氷と雪に覆われた池ノ谷乗越が山稜を鋭くV字状に切り裂き、その切れ込みから天空にせり上がる剱岳本峰があった。
厳冬の山域が織り成す絶景に気を和ませながら単調なラッセルに耐え、やがて一,六〇〇メートルピークに達した。小広いピークの頂には、ちょうどテント一つ分程度の広さに雪をならした跡が残っていた。先行パーティーが、ここにテントを張ったのであろう。
「一本入れようか」という鬼島の言葉に促されてザックを下ろした。サーモスを引きずり出し、今朝沸かしたばかりの熱い紅茶をすすりつつ、空腹の血糖値低下で動けなくなる「シャリバテ」をしないよう羊羹やクッキーなどの行動食を口にした。
身体が熱く上気している間は時折頬を撫でる冷たい風が心地良く、晴天の絶景を前に顔の筋肉も弛緩させていたが、それも束の間で、息も収まり体温が下がってくると厳冬の寒さが肌を刺し始め、行動食を噛む口がこわばった。