ヤマタンとは、厳冬期に剱・黒部の山域に入山する者が個々に身につける電波発信機で、このヤマタンが発信する電波を頼りに遭難者の居場所を探し出して救助に当たる。形は五百円玉を少し小ぶりにした程度、厚さは三ミリメートル程度のペンダント様のもので、アンテナの針金が十五センチメートルほど飛び出ている。

そんなペンダントを針金ごと首からぶら下げるのはすこぶる不快そうであったが、実際に首にかけてヤマタンとアンテナをシャツの中に入れてみると存外気にならなかった。しかし川田は、こんなちっぽけな発信器から出る電波で、深山に入った登山者の居場所を捕捉できるのか疑問だった。

「これでレスキューしてもらえるのですかね」

「いや、ヤマタンはほとんど小禄(遺体)捜しに使うんだよ」と、鬼島は茶をすすりつつ飄々と答えた。

川田は「はあ……」と言いながら再び茶をすすった。そんなことだろう。所詮は深雪に埋まった遺体を捜し出すという途方に暮れる労作業を軽減するためのものでしかない。

「まあ、たまにドカ雪で動けなくなった奴らを生きたままピックアップすることもあるらしいけどな」と、鬼島が続けた。

外の凍てついた冬の空気とは違い、ストーブで暖まった指導センターの中で茶をすすっていると全身の力が抜ける。川田は壁にかけられた厳冬の剱岳の写真をぼんやり眺めた。眺めながら、今自分がその氷と雪を鎧のごとく纏った頂を目指していることが、何やら現実とかけ離れた世界のことのように感じられた。

川田は茶を飲み終えると、さらにもう一杯湯呑みに茶をついだ。この茶を飲み終えたらいよいよあの壁に掲げられた厳冬の冬剱の懐に入り込むことになる。凍てついた氷と岩の世界に。自分はそれを求めてここにやって来たのだが、しかしストーブが煌々と焚かれた暖かい部屋で茶をすすっていると、この弛緩した時間をいつまでも続けたいというような、そんな矛盾があった。