「すまない。君の努力を笑いものにしてしまった。恥の上塗りをしてしまった。ごめん。なんだか、悔しくて」
その時は、妻よりも私のショックの方がはるかに大きかったに違いない。病気が完治したなら、再び妻に家事などの日常を依存した生活ができると無意識に期待していたのかもしれない。何に対する悔しさだったのか、もう見当がつかなくなっていた。
妻は少しだけ頬を紅潮させて、慰めるような目で私を見ていた。少しでも、妻の感謝というか、願いというか、諸々の希望のかけらが繋がっていけばいいのに。私は妻が何を言っても、真摯に受け止める、と誓っていたのに、心は、その日、その日で、妻の演出という疑いと、希望とがごっちゃになって、しばらくの間、私の頭の中を行き来した。
昨日まで病状が好転し、最悪でも進行が止まったのかと、勝手に思い込んでいた。これなら自宅介護も可能なのではないかと思い、午前中に家の掃除をして病院に来た。それが数時間も経たない、その日の午後には真逆の状況に突き落とされた。
『病気の進行は留まることなく、筋肉は確実に衰えている。妻の身体に居ついたALSという生き物だけが、誰に気兼ねすることもなく、目的に向かって冷静に突き進んでいる』
『人の願いなど関係ないのだ』という気持ちと同時に、『京子の手足が新たに動き出したという言葉を信じ、自分が良い方に捉えなくては、誰が京子の心根を受け取ってやることができるのだろう』といった二つの思いで、私は虚勢を張ってみたが、すでに心が踊らなくなっていた。
病状の好転で療法士に感謝の意を汲み取ってもらおうとした京子の行為が、寂しい気持ちに変わってしまったのではないかと思えた。今では、打ちひしがれて出て行った作業療法士の顔が、京子の頭に悲しく浮かんでいるに違いない。
私だけは、京子の前で落胆した表情をするわけにはいかない。二人が立ち直るきっかけを掴まなくては。人間には自然治癒力がある。免疫力を上げて、それを最高に引き出さなくてはならない。少なくとも妨げるわけにはいかない。それこそ負の連鎖で、心も身体も自己崩壊する。私が動揺した顔を見せれば、京子に確実に移る。『しっかりしろ』と自分に言い聞かせていた。
翌日から毎日「まだ動く?」と笑顔で訊くことにした。その後も数日に一回、訊ねていた。京子は少しだけ微笑むことがあった。
【前回の記事を読む】ALSの妻が、興奮気味に「右アシ見テ」と口パクする。急いで見ると、「動イタ? 動イタ?」と楽しそうに…
次回更新は1月2日(木)、21時の予定です。
【イチオシ記事】ホテルの出口から見知らぬ女と一緒に出てくる夫を目撃してしまう。悔しさがこみ上げる。許せない。裏切られた。離婚しよう。