「もう、怒らないよ。六秒ルールというのを見つけたんだ。六秒間、怒りの矛先を変えれば、冷静になれるんだ」
私は慌てて言った。
「何ノ事?」
「感情が高ぶったら六秒間だけ対象外のことを考えて、自分の気持ちをはぐらかすんだ。そういう話なんだ」
私は最初から説明をした。
「ソウナノ?」
京子は、にわかには信じられないという表情だった。私は怒りをかわすための「無関係のこと」を、具体的に何にすべきか迷っていた。
今日、着ているポロシャツは、京子から近くのデパートに呼び出されて買ってもらったものだ。少し値段が高かったので、私の好みの色と柄の雰囲気を、確認させられたのを覚えている。妻はいつも自分の物は後回しにしていた。そんな思い出は山ほどあった。
京子が健康であったとき、日々気をくばって作ってくれた食事のこと。私が趣味で釣りに出かけるとき、朝の三時に朝食と昼食用の弁当を作ってくれたことも、はっきりと覚えていた。父母の介護、庭の草むしり、仏事、毎日の風呂の掃除など、私の気付いてないことも含めて限りなくあった。
情けないことに、若い時はそれが当たり前のことだと受け取っていた。六秒の心の高ぶりから、感情の切り替えの時間として探しだす項目にちょうどいい。京子に感謝ができて一石二鳥だ。
「ヨカッタ。アナタニ、時々、ハラハラ、サセラレタモノ」
京子は諦めていたはずの薄暗い穴から、顔を覗かすようにして、頬を少し膨らませた。透明な五十音字表から、そっと上目づかいに、私の顔をなおも見定めていた。警戒態勢を崩していないミーアキャットを連想させた。やがてその表情が、水の中にスポイトで色をさしたように、幾重にも明るく波紋を描きながら顔中に広まっていった。
「もちろん、まだ完璧に完成してない。最初は目だけが、怒っていることだってあるかもしれない。でも、怒ってない」