ALS
観察期間が終わり四人部屋に移された。個室には一カ月半近くいたことになる。今度の部屋は明るく、おまけに窓際で、外には勢いのよい蔦の絡まる木々が見えて気持ちが良かった。
胃瘻からミルクを入れるとき、ベッドの角度が上げられる。丘の上にある病院のため、その少しの時間だけ、狭く切り取られた空と木のわずかな景色を、京子は視界に入れることができた。長時間になると疲れが出る。
ミルクが終わると少し頭の角度を下げて、胃からの逆流を防ぐための待機時間に入る。その時点で景色はすべて消えて、自分の正面のベッドの患者の様子が見える。そして、もっと下がった角度になって、日常の見飽きた白い天井に戻ってしまう。季節が変わる頃には日差しが強くなり、厚いカーテンを引くことで、景色のすべてが消える。
「Nちゃん、頼むから起きて。今から眠ってたら、夜、眠れないよ。私らが、夜勤の人に怒られる。どうしようアケミさん、起きない」
「私は副担当よ。エミちゃんが起こすしかない」
四人部屋で、Nさんだけ、わりと身体の自由が利くようだった。食事も胃瘻でなく普通食らしき物を食べている様子が以前から伝わってきていた。
まだ、病気が初期なのか、ベッドを仕切るカーテンは完全に閉じられ、向こう側から二人の看護師見習い「ワ抜けコンビ」と呼ばれている大人に成り切っていない弾けるような声が、聞こえてきた。Nさんは、自分で歩くことができず、助けがないとベッドに起き上がることができない。ALSであるなら小康状態が続いているといっていい。
後の二人は京子より症状が進んでいた。戸口から入ると開け放たれたカーテンから一番に見える田中さんはALSの患者だ。
生命維持装置を付けて上を向き、黒目は一点を見つめたままであまり動かないようだった。見ていると、田中さんは沈黙の単なる聞き手であり、自分から実情や希望を訴えることができない「TLS」になりかけているのではないだろうか。息子の話では目蓋の動きも鈍くなって、母親の意思判断ができなくなったと口惜しそうに言っていた。
日曜日には四十歳を過ぎた息子が「お母ちゃん来たで」と見舞いにやって来て、ボソボソと二言、三言話すが、ほとんど反応はなくなっているようであった。それからスマホをいじって、二時間ほどすると「お母ちゃんまた来る」といって息子は夕暮れの街へと帰って行く。