第二章 幼学綱要を読む

【忠節(ちゅうせつ)・第二】

支那史(しなし)

⑦三国志(さんごくし)

【22】「諸葛亮(しょかつりょう)」

かつて、帝(みかど)に上(たてまつ)る文(ぶん)である「出師(すいし)の表(ひょう)」には、こう伝(つた)えています。

「先帝不以二臣卑鄙。猥自枉屈。三顧臣於草盧之中。諮臣以当世之事。繇是感激。遂許先帝駆馳。爾来二十有一年矣。先帝知臣謹慎。故臨崩寄以大事也。」※1

また、このようにも伝(つた)えています。

「臣鞠躬盡力。死而後已。至於成敗利鈍。非臣之明所能逆覩也」※2

その忠誠(ちゅうせい)の心(こころ)は「表(ひょう)」の中(なか)の言葉(ことば)に表(あらわ)れ、聞(き)く者(もの)は皆(みな)、涙(なみだ)を流(なが)しました。

※1 先帝(せんてい)は臣(しん)(亮(りょう))の身分(みぶん)が低(ひく)いにもかかわらず、身(み)を低(ひく)くして臣(しん)が住(す)む草盧(そうろ)に三度(みたび)、訪(たず)ねられました。

そこで、臣(しん)に対(たい)して今(いま)の世(よ)で考(かんが)えられる策(さく)を問(と)われました。

先帝(せんてい)は臣(しん)の答(こた)えに感動(かんどう)して、その策(さく)を使(つか)って、今(いま)の世(よ)を変(か)えていく許(ゆる)しを与(あた)えてくださいました。

それから二十一年(ねん)になります。先帝(せんてい)は臣(しん)が謹(つつし)み深(ぶか)いことを知(し)り、そのために崩御(ほうぎょ)する際(さい)、臣(しん)に国(くに)の大事(だいじ)を任(まか)されました。

※2臣(しん)は一生懸命(いっしょうけんめい)に力(ちから)を尽(つ)くし、反省(はんせい)は死後(しご)に行(おこな)います。臣(しん)の判断(はんだん)は間違(まちが)えることもあります。

成功(せいこう)か失敗(しっぱい)か、賢(けん)か愚(ぐ)かは判断(はんだん)できませんが全力(ぜんりょく)をもって成(な)し遂(と)げます。