第一章 月の面影

「弓張 (ゆみはり)の 月にはづれて 見し影(かげ)の やさしかりしは いつか忘(わすれ)ん」

(半月のかすかな光であなたを見ました。優雅な美しさはいつか忘れるでしょうか。いいえ、いつまでも忘れません)

鞍馬山(くらまやま)で月を見上げていた西行が思い出していたのは、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の面影(おもかげ)であった。

待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)は、鳥羽上皇(とばじょうこう)の中宮 (ちゅうぐう)で崇徳天皇(すとくてんのう)の生母である。西行より十七歳も年上だ。

初めて出会ったのは、まだ西行が十六歳の頃だった。西行は武家の名門佐藤家の若き当主佐藤義清(さとうのりきよ)として、主家徳大寺実能(とくだいじさねよし)の家人(けにん)になっていた。

佐藤家は広大で豊かな紀伊国田仲庄(たなかのしょう)の領地の「預所(あずかりどころ)」であり、代々左衛門尉(さえもんのじょう)となり、検非違使(けびいし)(警察・軍事担当)の官職についていた。だが父は義清(のりきよ)の幼い頃に亡くなり、嫡子(ちゃくし)の義清(のりきよ)は父の官職を継げなかった。

残された母と叔父達は、田仲庄(たなかのしょう)の存続をかけて一日も早く義清(のりきよ)を官職につけたいと願っていた。義清が十五歳になるのを待ちかねたように、母と叔父達は義清を内舎人(うどねり)の官職に就(つ)けるため、絹二千匹という高価な品を朝廷に献上 (けんじょう)した。

当時広く行われていた成功 (じょうごう)という制度である。しかし残念なことにまだ若すぎると見られたせいか、義清はその年の成功 (じょうごう)に洩(も)れてしまった。

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