クリムゾンの糸 兎太郎
屋敷の臭いの元はおそらくこれ、むせかえるような血と肉の臭い。銃の手入れをしている時に誤って自分に発砲してしまったのだろうか。
「ぐ、ぶぉ……っ!」
たまらず巽はカーペットの上に嘔吐した。
(なんだこの家は……いったい)
聞きたくても弥子の姿がどこにもない。ぐぢゅ、と足元がぬかるんだと思いきや、血濡れのカーペットを踏んでいる。
「ひいっ! ……え!?」
逃げ出そうとしたが、なぜか足が全く動かない。下からザワザワと靄のようなモノが這いあがって巽を取り巻いている。
暖炉の火がいっそう強く燃え上がり、ソファの背後を照らし出した。キィ……と揺れるロッキングチェアに、正絹着物を真っ赤に染めた中年女が座っている。
「夫人!」
だがまだ生きている。双眼を見開き、教授夫人はチェアにもたれて震えていた。教授の背後にいたせいで流れ弾に被弾したのだろう。
ぐぢゅ。ぢゅ。ぐぢゅぢゅ、ぢゅ……
巽の背後から何かの音が近づいてくる。だが振り向けない。身体が自分の物ではないようにいうことをきかない。
(もしかして……これ、これは……!)
「巽さん」
突然聞こえた柔らかな声にドッと汗が噴き出す。ぐぢゅ、と濡れたカーペットを踏み、弥子が巽の前にようやく姿を現した。
「弥、子さ……」
巽を見つめたまま、彼女がおもむろにスカートをたくし上げる。露わになった白い太もも、そこには。
「……っ!!」
肌にくっきりと浮かび上がる、ミミズ腫れの赤い魔法陣。
円と六芒星、様々な幾何学紋様と数字の組み合わせに見覚えがある。
「クリムゾン(赤の)・サークル(魔法陣)……!」
「そう。血の赤で魔法陣を描き、七日間、誰にも見られず丑の刻に祈りと呪文を捧げる。あなたが教えてくれた、現存する最も強力な呪いの術式です」
確かに呪術に関して彼女に話して聞かせた。何度も何度も。
巽は民俗学の中でも、呪術の研究にのめり込んだ。
特にこのクリムゾン・サークルの術式はあらゆる願望にも対応する最強の呪法であり、血で描くという特異性にも魅了されていた。
ただ失敗や中断をすれば、強い呪術ほど術者にくる呪い返しも反動が大きい。
「誰を……?」
その時、ふと気づいた。彼女の太ももには、魔法陣以外に赤黒い痣のような痕がいくつも見て取れる。
「その痣は?」
巽が尋ねると、弥子が初めて顔を歪めた。
「……それもご存じのくせに」
ゆらり、と彼女の背後に黒い陽炎が立つ。
「これはお父さまが私を弄ぶ時に残す痕。養女になった幼い頃からずっと続く地獄。誰も、お母さまでさえ助けてはくれない」
屋敷の暗さが増してゆく。暖炉の火も窓からの月明かりも、弥子から滲む靄に覆われてゆく。「逃げてもその度に折檻されてまた体を開かれる。そのうち屋敷を出ただけで嘔吐し、気を失うような体質になってしまったわ」
(やはり教授の呪殺を!)
弥子がそういう境遇だった事を、巽は確かに知っていた。だからこそ急を要する論文の手伝いと称して強引にこの屋敷に押し掛けたのだ。
「でも、実はちょっとした失敗がありました。七日目の儀式を見られてしまったの」ハッと巽は息を飲んだ。
「あの、楠の……」「そう。おしゃべり雅子さん。目を抉り取ったのに、見なかった事にはできないんですって」クスクスと口元を押さえて弥子が笑う。その影が大きく膨れ上がって彼女を背後から抱きしめる。
「見られたせいで術式の追加が出てしまって。彼らの要求は四つの供物。一つは目印として外の樹に吊るせと」「彼ら……?」
いつの間にか弥子の常盤色のワンピースが赤黒く染まっていた。幻と現実が溶けあい、弥子の呪術が屋敷を侵食していく。
(これがクリムゾン・サークルの力。ナニかを喚(よ)んで叶えるのか……!)身体中の血が沸き立つのがわかる。だがこれ以上は危険だ。
「お父さまは、巽さんがこうなるように銃を改造していたの」踵を返し、弥子が死体の横の銃に視線を落とす。
「これは軍用村田式の払い下げで、元々不安定な代物。撃てば暴発するように細工をして、狩猟であなたに使わせようとした」
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