プロローグ 覚醒
眠りは……もういらない。
物心ついた頃から、眠ることが怖かった。また、目覚めるのだろうか。
そんな不安の中で眠りに落ち、翌朝目覚めれば、再び一日の始まる喜びが満ちる。いつ途絶えるとも知れない生にしがみついてきた彼の人生は、そんな奈落(ならく)の夜と白い朝の繰り返しの中にあった。
目を閉じればそのまま永遠の淵へでも落ちていけそうな気がする。疲労した彼の肉体はもうそれを拒まない。だがその安らかさの中に滑り込もうとする時、覚醒(かくせい)した彼の意識がかっと立ち上がる。
眠りなどいらない! まだ眠ってなどいられない!
彼は、まだ夜も明けやらぬ広場の真ん中に立った。肩を被う金色の髪、白い額、心持ち寄せられた眉根(まゆね)には凛々しく固い意志を宿している。ほっそりとした、しなやかな体。手には粗末な皮袋に納められた一本の剣。
この広場から放射状に延びた八本の小路がこの村のすべてだ。彼は、それぞれの小路に向かって心を集中する。総毛立つほどに研ぎ澄まされた彼の五感は、左右から、背後から、その先でやがて目覚めを迎えるであろうひっそりとした人々の気配を引き寄せる。
さあ、俺に力を、その思いをよこせ!
深い水を湛えた湖を思わせる瞳は真っ直ぐ前を見据えたまま、彼の皮膚はその小路の隅々から湧き上がる沈黙の声を聞く。
小さな村だ。どこにも繋がっていない孤立した村。
南北に長く連なるグランターニュ山脈がアトラスの盾(たて)と呼ばれる断層によって分断されたほんの小さな切れ目、その袋の底のような場所にこの村はある。東向こうを塞ぐ山を越えれば、そこはもう異民族の住む領域だ。
西に立ちはだかるのは魔境ギガロッシュ。
太古の昔、地を割って出現した数百もの岩はひしめき、そびえ立ち、さながら迷路のような岩場を作り上げた。
暗鬱(あんうつ)とした内部に入り込めば、巨岩、奇岩が行く手を塞ぐ。古来から多くの旅人が道に迷い、屍(しかばね)を晒(さら)したその場所は、いつの時代からか、魔物の棲み家、ギガロッシュの迷宮と恐れられていった。
そんな魔境の岩場に、謂(い)われのない罪を問われた人々が迫害を恐れて逃げ込んだのは、もう二百年も前のことだ。