経済アナリストはこの頃の成長率を2009年6月から2018年6月までの9年間の年度平均実質経済成長率わずか2.2パーセントと比較して、力強い実質経済成長が高い債務の対GDP比率のベストな解決法であることを理解しなければならないと連邦準備制度理事会による金融的引き締め政策(名目金利をインフレ率より少し低めに一定期間維持することで、名目負債の実質価値を減少させる)との組み合わせにより達成されたのだった。

この間朝鮮戦争とベトナム戦争という2つの大きなアメリカによる戦争があったが、それでも債務の対GDP比率は下がり続けた。それは朝鮮戦争では増税により支出がまかなわれ、ベトナム戦争ではケネディ-ジョンソンの時代において強力な実質経済成長があったからだった。

戦後における手堅い債務の対GDP比率の減少は、ニクソン、フォード、カーターの時代(1969-81)を通じてそれぞれ異なる理由により継続した。

1970年代の実質経済成長率は1960年代ほど強いものではなかった(1974年から75年、それに1980年に景気後退があった)が1976年以降の著しいインフレが1950年代の金融的抑圧と同じような影響を与えた。

インフレの進行に金利の引き上げが追いつかず、ポール・ボルカーは1980年にいきなり20パーセントの金利でブレーキをかけようとした。

名目GDPが赤字プラス金利を上回って増加していく限り、たとえ実質GDPの成長が弱くとも、債務の対GDP比率は減少する。

1950年代での計画の活用、1960年代での幸運、それに1970年代のインフレにより、ジミー・カーターが1981年1月に辞める頃には、債務の対GDP比率は究極的に32.5パーセントまで減少し、この値は1790年のジョージ・ワシントンの第1期と同じレベルで、しかも1930年代以来最も低い率であった。

民主、共和の7名の大統領による政権において、それは1945年から1981年までであるが、そそり立っていた戦後の巨額な債務が少しずつ削られ、維持可能な、それも羨ましい水準まで減少したのだった。それは財政タカ派がニオイを嗅ぎつけた瞬間でもあったが、飛び去った。

債務の対GDP比率はこれほど低くなることはないだろう。

この経済史を心にとめた上で、この直近の40年の歴史を見てみたい。この時期においては国家安全あるいは外国からの脅威のため歳出は重しを外された状態になり、その後続いたはずの国家債務の拡大と収縮は1つの長期にわたる拡大パターンに取って代わられ、国家として不面目な事態にまで達している。

【前回の記事を読む】戦争への参戦によりアメリカの「国家債務」は爆発的に拡大。自由公債は財務省の債務だった?!

次回更新は11月12日(火)、8時の予定です。

 

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