【前回の記事を読む】「自傷行為で命を落とす方もいますよ?」…行為を繰り返す彼女に措置入院を勧められた。でも、僕のわがままでそれはさせない。

言葉のサラダ

元気な頃、夏海はいつも坂道を登る度同じ台詞を口にしていた。

「この坂を登るとね、向こう側に海が見えてきそうな気がするの」

坂の下から見上げる景色は、その向こうの世界を隠している。登りきった場所に何が待っていようと、神様はこれから登るものに下世話なものを想像させない。

頑張って登っておいでと、神様のエールが聞こえてきそうだ。きっと夏海はそこに大好きな海を思い描いたのであろう。人間の本能が求める海なのか、夏海自身が求める海なのか。

夏の海という名前を持ったこの人は、きっと海のように深い愛情を持っているに違いない。それを独り占めできたら……徹はほんの少しの期待を抱きその一言を待っていた。

しかし、この日夏海の口からその台詞は出てこなかった。今度は真っ白なお皿にちょっとだけ盛られたサラダだった。

「海」

夏海の口から絞り出すように漏れた言葉。風が吹き笹の枝が大きくしなってザワザワと葉が揺れた。

それは夏海に対して怒りを覚えているかのようだった。風はわざと夏海の言葉を遮(さえぎ)り徹には聞こえぬよう細工をしたのだ。

「えっ、なにか言った」

徹が夏海に問いかけた。夏海は首を横に大きく振るだけだった。

徹はギュッと力を入れて夏海の手を握りしめた。少しでも力を緩めたら風に夏海を持って行かれそうに感じたからだ。徹が感じた風はとてつもない大きな力で二人を包み込んだ。

低気圧を感じさせる淀んだ空気が雲と結託して夏海の海馬(かいば)を冒(おか)し始めた。

「おとうさん、海」

そう夏海の口から言葉が漏れたのは、坂道を登りきった時だった。お父さんって……徹が以前夏海から聞いていた父親の話は、あまりにも鬼畜(きちく)な人間であったのを思い出した。

呑んだくれの父親に愛想を尽かし、母親は三歳の頃自分を捨てたのだと夏海は悲しげに言っていた。それ以来父親は酒に溺れては夏海に暴力を振るい、夏海はそのトラウマから抜け出すことができず、時折フラッシュバックで当時のことを思い出し苦しいのだとも話していた。

そんな人間のことを、この人はまだ心の中に抱えているのだと思うと堪え難い気持ちになった。

「お父さんに会いたいの?」

徹は夏海に話しかけてみたが、夏海は「お父さん、海」を繰り返すばかりで会話は成立しなかった。