契約であるからには「人の契約の義務=サタンの仕業を打ち砕くことを絶対にしなくてはならない」のです。
キリスト教は「血の契約」をベースにして、神様と人との関係が成立しているので、それは「ビジネス」として捉えた方がより正しい受け止め方です。
なぜなら、しなければならないことが明確に指示されていて、しかもその結果(勝利と祝福)まで、きちんと約束されているからです。
単なる心の拠り所である他宗教との違いが、「契約だからである」ことを肝に命じていなければなりません。
それなのに多くの教会での祈りの内容が困った時の神頼みで、泣き言を並べてただ「神様に委ねます」と言っていて、自分では何もしようとしていません。
「祈り」の概念が、神様にすべてを頼み込む「おんぶに抱っこ」であるかのように、信仰に入った時に、礼拝説教などで刷り込まれてしまっているからです。
これは、旧約時代のイスラエル人が取った「神のしもべ」の態度であり、現在の新約時代に神様が求めるクリスチャンのありようとは全く逆の姿勢であり、このような祈りが現代において聞き届けられることは稀です。
それは「生まれ変わる」ことの本質が捉えられていないからですが、その大きな要因の一つが、日本の多くの教会で、「水のバプテスマ」で生まれ変わったとしていて、「悔い改め」の段階(第1の義)でストップしてしまい、「血の契約」に基づく正しいキリスト教(第2、第3の義)を行っていないからだといえます。
現代の私たちは、「主イエスの名によるバプテスマ」によらなければ、「生まれ変わり」をしたとはいえません。そしてさらに「聖霊のバプテスマ」をも受けていなくてはならないのです。
【前回の記事を読む】「神様は、全人類の身代わりとして、イエス・キリストに血を流させ死なせました。」人類が神様と「血の契約」を交わすためには…