「ああ。たらの芽がほとんど取れなかったから、今晩はしし鍋に変更するから、内村さんのところからしし肉をもらってくるように、言っといてくれ」
「内村さんのところだね。わかった」
俺は、「それじゃあ、失礼します」と言って、また走りだしてその場を離れた。
今夜の俺の婚儀は先に延ばされた。そして、それは爺ちゃんの余命が伸びたということに他ならない。俺の希望がすべて叶えられた。それから何もない日々が続いた。ゆっくりしすぎて父は更に腹が出てきたような気がする。美香は、田舎で見つけたおもしろい風景をスマホで撮ってはインスタグラムにアップしている。電波事情のよい場所を見つけたらしい。
俺は、次の日の朝も、その次の日の朝も、経国寺の境内を走った。舞子とふたこと三言話すだけなのだが、俺には彼女が将来の俺の伴侶となることに、もはや疑いを持たなかった。
そして東京へ戻る日の朝。その日も朝日の中を駆けてきた俺は、息を整えるのももどかしく、思い切って彼女に告白した。
「舞子さん。俺は、いずれここに戻ってきます。中村家の第十五代当主となるために。そのとき、舞子さんを俺の妻として迎えたいと思います。それまで待っていてもらえますか?」
一瞬、舞子の顔色が曇った。突然の告白に断られるのかと思った。でも、よく見ると涙を浮かべている。涙を流すまいと必死に我慢していたのだ。彼女は、今度は現実から逃げなかった。そして、俺の顔を涙で曇る目で見つめながら小さく、でもはっきりと答えてくれた。
「はい。翔太さんのお嫁さんになる日を楽しみに待っています」
*
東京に戻ってからしばらくして、婆ちゃんから電話がかかってきた。爺ちゃんが山菜採りで山に入ったとき、崖から転げ落ちて左足首を骨折して入院したということだった。