第一章 新たな訪問者
亜美
事故を見た記憶は消えていた。
辺り一面に咲くすずらん。小さな花は風に吹かれてひっきりなしにそよいでいるのに、耳をふさがれてでもいるかのように音がしない。その不思議な無音の世界を亜美が意識した途端、風の音がした。
─亜美─
「お父さん」
姿はないがそれはまぎれもなく雄一の声だった。温泉宿は消え、辺りは見渡す限りのすずらん。
「お父さんどこ?」
心細くなってもう一度呼ぶが返事はない。あきらめて歩き出す亜美。しばらくすると一本の細い道に出た。戸惑う亜美、道をたどっていけばいいのか原っぱを進むべきか。
「お父さん?」
小さな胸に押し寄せる抱えきれないほどの不安。
「お父さん!」
大きな目に涙がふくれ上がり長いまつ毛を濡らした。涙はあとからあとからこぼれ落ち、彼女の空色の運動靴に当たって散った。
§
ひとしきり泣くと亜美は目の前に横たわる細い道を歩き出した。道はゆるやかに曲がりながらどこまでも続いていた。どれくらい歩いたのか一軒の古い大きな館の前に出た。空は暗くなる前の一番美しい茜色(あかねいろ)に染まっていた。
もうすぐ日が暮れる。
呼び鈴は亜美が背伸びしてやっと手の届く高さにあった。押してみたが返事はない。注意深くドアを開けると暗い廊下が真っすぐ奥に伸びている。歩くと木の床板が軋(きし)んでかすかな音を立てた。
廊下は暗闇の中で右に折れていた。曲がると前方に光るものがある、水槽だ。金魚が三匹赤い尾びれを振って泳いでいる。その先は突き当たりでT字の廊下になっていた。
もしかしてここは……
亜美がそう思った途端、高らかな足音と共に数人の看護師が目の前を通り過ぎていった。
足早に廊下を行き交う姿は白衣のせいかとても冷淡に見えた。看護師たちの様子に気圧(けお)された亜美は引き寄せられるように水槽に近づいた。
「ここは病院なんだね」