「このままではいけない、農民が安心して働けなければ、税も上がらず国が滅んでしまう、儂が政情を安定させなければ」と、思いが込み上げていた。
蜀の国は、成都を首府とする肥沃な広い耕地を持つ農業の盛んな地であったが、西は吐蕃(とばん)(チベット)、南は南詔(なんしょう)(ミャンマー、雲南省地域)の二つの隣国と境を接するため、絶えず侵略の危険に曝され、唐の中でも統治の困難な地域だった。
唐の時代以前の吐蕃、南詔はいずれも部族間で対立を繰り返すだけ、国としてまとまりのない地域に過ぎなかった。
ところが、唐の時代になるとそれぞれが国内の統一を成し、国力を蓄え唐との国境を侵犯するようになっていた。
特に騎馬民族の吐蕃は、よく訓練され、統率の取れた騎馬軍団も持って周囲の小国を次々に併合し、西はガンジス川北岸地域までも支配下に置く大国に成長していた。
武力で勝る吐蕃は頻繁に蜀の国を侵略するようにもなり、安史の乱で混乱した唐の国状を察知して国境を深く侵犯、勢いに乗じて都、長安までも占拠した時期があり。
その時の唐王朝には長安を自力で吐蕃から奪回する力がなく、北の隣国ウイグルの力を借りて長安を取り戻した過去があった。
吐蕃による長安侵略は短期間で終わったが、小規模な侵略は絶えることがなく、脅威も薄らぐことなく農民は疲弊し、農地の荒廃も進んでいた。
吐蕃を恐れる唐王朝は戦いを終息に導くために、両国の間で国境を定める盟約「建中の会盟」を締結した。だが、長大な国境を接する両者の対立は、収まることがなかった。
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