その目論見に王守澄派の宦官が反対を唱え、穆宗の弟、李昂(りこう)を後継皇帝に推し、皇帝を殺害した劉克明を責め立てた。
企てが外れ窮地に追い込まれた劉克明には、井戸に身を投げて自害するしか道はなかった。こうして誕生した十七代皇帝文宗(李昂)もまた王守澄に擁立された皇帝である。
宮中を牛耳る宦官王守澄は、十八歳と年若い文宗も先の皇帝敬宗と同じように権力の座から遠ざけ、飾り物として祭り上げたが、帝位に就いた文宗も敬宗と同様に宦官の専横を快く思っていなかった。
現状を変える方向に目を向けた文宗は、王守澄と密接な関係にある牛党の官吏を退けることに力を注ぎ、宰相牛僧孺を地方へ転出させ、予てから宦官の横暴を快く思わない裴度を、宰相として呼び寄せることができた。
ところが、中央へ戻った裴度が最初に行ったのは、皇帝が望む宦官の力を弱めることではなく、反目する李逢吉を宰相職から追い落とし、盟友である李徳裕を兵部侍郎として中央に呼び戻し、宰相に就けることだった。
しかし、裵度の強引な手法は、以前から宰相職にあった李宗閔が王守澄の力を背景に妨害し、逆に裴度が宰相職を追われて、襄陽節度使に左遷させられてしまった。
一旦は長安に呼び戻された李徳裕も、鄭・滑節度使として転出させられ、さらに統治が困難で難問を抱える内陸の蜀の節度使に左遷されてしまった。
「儂の失脚、失態を狙っての任地替え、姑息な手段を用いる牛党に負ける訳にはいかぬ」
度重なる任地替えで中央から遠ざけられ、心折れる気持ちを奮い立たせたが、不憫さは身に沁みて感じていた。
蜀に赴任した李徳裕は荒廃した農地を目にして心が痛み。