第1章 長嶋誕生
鬼の砂押監督の下、東京六大学のスターに
立教大学野球部の監督は「スパルタで人間をつくる」を信条とする鬼の砂押邦信である。
彼は昭和25年に立大監督に就任し、長嶋が高校3年生の時に20年ぶりの優勝をもたらした。長嶋は推薦による入学だったが、それでも野球部の「セレクションキャンプ」をパスする必要があった。
合宿所の大広間で行われた自己紹介で「佐倉一高の長嶋です」と言ったが、何の反応もなかったという。それも当然であろう。セレクション受験生の80人中20人もが甲子園出場経験者だったのだ。
私は昔観たテレビ番組で、佐倉一高当時の長嶋と一緒にプレーした野球部の同級生が登場し、その同級生(4人ぐらいだったと思う)が口をそろえて「あんなすごい選手になるなんて夢にも思わなかった」と言っていたのを覚えている。「引っ張るよりライト方面へ打つことが多かった」とも言っていた。
キャンプの三日目に紅白戦が行われた。相手の投手は後に南海ホークスのエースとなる杉浦忠である。
杉浦は8回まで無失点で抑える力投をする。その杉浦から左中間二塁打を放ったのが長嶋である。バッティングゲージで鬼の砂押錦吾監督がそれを見ていた。長嶋は推薦順位2番で通過した(1番は本屋敷、3番は杉浦)。バッティングはともかく、守備は下手で、ショートの本屋敷とは月とスッポンであった。
鬼の砂押監督は言葉通りの指導を行った。
例えば一人がノックを取り損なうと連帯責任いうことで全員がまた練習をやり直す、と言う。それでやり直しが続き、疲れた体で「夜間練習」が行われた。「月夜の千本ノック」という話は伝説ではなく事実だったのだ。砂押監督は長嶋を、本屋敷には及ばないものの「粗削りだが素材はいい。磨けば光る」選手と見ていたようだ。
彼には守備用、打撃用の二人のコーチがついた。長嶋に対する期待感が見て取れる。長嶋自身「(野球部を)止めたいと思ったことは一度もない」と言っている。おかげで守備範囲が広くなり、肩もよくなった。
長嶋が1年生の時に父親が亡くなっている。亡くなる時、父親は「六大学一番の選手になれ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ」と言い残した。