第1章 長嶋誕生
傑出した存在ではなかった高校時代
不出生のスーパースター長嶋は、昭和11年2月20日千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市に編入)で農家の二男二女の末っ子として生まれた。2600グラムという小さな赤ちゃんであった。
ここからは中央公論新社から出版された『野球は人生そのものだ』(著:長嶋茂雄)を参考に野球選手になるまでの長嶋を見てみよう。
生まれた時からスター性を仄めかすものが垣間見える。この昭和11年は職業野球、いわゆる「プロ野球」が誕生した年なのである。2月20日は第二回目のアメリカ遠征の壮途についた巨人軍18名がハワイ・ホノルルについた記念すべき日でもある。長嶋は“オギャー”といわずに「『プロ野球』はこの俺が発展させる」と言ったのではないかとさえ思わせる。そして、彼は成長し今日の「プロ野球」の盛隆をもたらすのである。
しかし、大学を終えるまでは、長嶋はそんな傑出した存在ではなかった。小学生の頃のあだ名は「チビ」だったという。しかし運動神経は抜群で、投げること、走ることは特に優れていた。
当時の日本では、すでに野球は市民の間で浸透しており、町内大会も盛んに行われていた。彼も6歳年上の兄に連れられて青年団野球クラブ「ハヤテ・クラブ」に入った。小学4年生の時であり、これが『これが私の野球事始』と述べている。暇さえあれば兄とキャッチボールをやっていたという。父が買ってきたグローブと、母の手作りのボールでより一層、草野球に励んだに違いない。