『ミルンは1875年に明治政府の工部省から工学寮工学校の鉱山学・地質学の教授に招かれると、ロンドンからスウェーデンに渡り、冬のロシア、シベリア、モンゴル、中国を横断して8か月がかりで日本にやってきた。長旅の目的は地質学に関する見聞を広めることであった。

ミルンが地震に関心を持つようになったのは、1876年3月に来日したその夜に地震を経験したことがきっかけだった、と伝えられている。』(2)このミルンの稀有な才気と行動力がなければ、かくも短期間に学会の立ち上げはできなかったと思われる。

『ミルンは第二回総会で講演し、「地震学が研究されるようになって以来、主要な目的の一つは、地震の到来を予言(foretell)する何らかの方法を発見することである。こうした大災害の到来を前触れできる能力は、地震国に住むすべての人々にとって見積もり不可能なほどの恩恵になるであろう」と説いた。』(3)

この時、ミルンは若干29歳であった。

『地震の予知とならんで、地震災害を軽減するための研究に先鞭をつけたことも日本地震学会のもう一つの功績といわれる。ミルンは地震災害を小さくするために、建物の設計にどのような注意をはらうべきかについても具体的な提言を行っている。』(4)

ジョン・ミルンとトネ夫人(函館市中央図書館所蔵)

「地殻変動の観測」に着目したミルン

早くから断層運動に着目していたミルンは、1891年の濃尾地震(岐阜県西部を震源とするM8.0の地震、内陸地震としては我が国最大。死者は7,273名。山崩れ1万余。根尾谷を通る大断層を生じ、水鳥で上下に6m、水平に2mずれた。理科年表2024)後の論文等でこう述べている。

『われわれが地震を予知できそうな唯一の道は、地殻の水平面の緩やかな変化が地震に先行しているか、あるいは地震に関係しているかどうかを決定することである』(5)と。

そして、ミルンが最終的たどり着いたのは、断層運動の観察であり現在流にいえば地殻変動の観測であった。

その上、ミルンは『現在、地殻の傾斜変動を観測するのに使われている「水管傾斜計」のアイデアや地震の予知は難しいが、襲来まで時間的余裕がある津波なら、電信網を使えば被害を減らせるとして、世界各国が協力して「津波警報システム」を設立する必要性を力説したり、

横浜で最初の揺れが観測されたら、すぐに電信網で東京に伝え、警告の大砲を発射するという現在の「緊急地震速報」とほとんど同じアイデアも語っている』。(6)これには驚くばかりである。


(1) 泊 次郎『日本の地震予知研究130年史 明治期から東日本大震災まで』(一財)東京大学出版会 2015年 27頁

(2) 泊 次郎、同上書、28頁

(3) 泊 次郎、同上書、29頁

(4) 泊 次郎、同上書、36頁

(5) 泊 次郎、同上書、48頁

(6) 泊 次郎、同上書、30、47、48頁

【前回の記事を読む】「地震の前兆」情報こそ、大地震・津波から多くの命を救う?「地震予知」に代わる地殻変動監視システムとは。

次回更新は10月5日(土)、8時の予定です。

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