主題ハ長調
戻れない道
この時点で呼吸器内科を受診していたら、あるいは良い方向に舵を切れたのかもしれない。でも二人でいろいろ情報を集め、喉の病気に明るいと評判の新百合ヶ丘の耳鼻咽喉科を選んでいた。
喉の緊張を緩める薬を処方され一カ月様子を見たが、状態に変化が見られないため、そこで初めて呼吸器内科の医院を訪れた。そしてCT画像を見た医師から肺がんの疑いを指摘されたのだった。
早速、がん拠点病院である市民病院での検査に移った。二週間後、呼吸器内科の担当医師に呼ばれ、気管支ファイバースコープ、脳のMRI、PET検査の結果を受けた所見説明を聞かされた。
「左胸に八センチ大の腫瘤があります。良性か悪性か今は分かりません。ただ、ぴったり心臓の隣にいるんです。これでは経過観察というわけにはいかなくて、すぐに手術で摘出する必要があります。手術となれば、心臓外科の助けも必要になりますし、K大学循環器呼吸病センターなどへの転院をお勧めします」
続けて医師からは、「ただ、脳や他の臓器への転移は今のところ見られません。仮に腫瘤ががんだったとしても、大きさが問題というよりも転移の有無が重要になってきます」とも言ってもらえた。
グレーゾーンには違いないが光明は見えた。和枝はK大学病院への転院を決め、市民病院から紹介状を、先方の呼吸器外科と呼吸器内科宛に書いてもらった。
翌日、大きな宅配便が届く。
和枝は四十九歳の誕生日を間近に控えていて、遥と廉が一カ月半も前からサプライズプレゼントを準備していた。もちろんその時点では廉も和枝の病気を予想だにできなかった。
「ママのピアノ教室には看板がない」と遥が言い出し、「じゃあそれを誕生日プレゼントにしよう」ということになり、遥がデザインするステンドグラスの看板を作ってもらうことにした。
遥は中学一年生になっていた。
画用紙に、まず真上から見下ろしたピアノの輪郭を描く。そしてその中にト音記号、八分音符、鍵盤を収め、最後に「CANTABILE(歌うように)」のアルファベットをうまく重ね合わせデザイン画は完成した。
製作はインターネットで探した千葉の工房に依頼し、遥の絵の中で、ステンドグラスに加工しにくい箇所を少しだけ修整してから作業に入っていた。
「ママ、開けてみて! ちょっと早く着いちゃったけど誕生日プレゼント」遥が急かす。病状が深刻なことも、入院することも彼女にはまだ話していなかった。
早く見たくてうずうずしている遥の顔を慈しむように見ながら、和枝が包みを開けていく。作品は遥の絵が忠実に再現されていた。八色の透明のガラスと乳白色の曇りガラスがリズム良く配置され、音楽が聞こえてきそうだ。