伊東祐親が恨み骨髄に達し、領土を横領したことは、嫡流たる彼にとっては無理もない。また祐経が祐親を憎んだことも、まったくいわれのないことではない。同じ血、同じ肉を分け合う者同志が、かくもいがみ合うことになったとは皮肉である。

つまり曽我兄弟が不俱戴天の仇と狙う祐経は、彼らの義理の叔父にあたり、兄弟の仇討ちは、身内(あいは)同士の壮絶な奪い合い、殺し合いの結果なのである。

「骨肉相食みかたみに敵視し、(略)兄弟を悲惨奈落の淵に沈めしはそも誰の罪」と、明治の物語には語られる。この罪の原因はどこにあり、誰のものであるのか。それは誰にも、永遠に解けない謎であろう。――因果応報とは、まさにこのことであろうか。

……さて、若き日は老獪な祐親に散々振り回された祐経。しかし、彼はなかなかに処世術に長けた男であったようだ。源氏有利と見るや、すぐさま平家を裏切り、源氏に味方する。そしてまた、彼にとって幸運だったのは、長年、京都で官人としての仕事に携わっていたという経歴だった。

頼朝の配下には武勇に優れた武士は大勢いても、役人、文人として優れたものは極めて少ない。京都で役人として活躍していた祐経は、この職歴を買われ、うなぎ登りの出世を遂げたのである。憎い祐親は死に、伊東の領地もすべて手に入れた。今は将軍のお膝元で悠々暮らす日々。頭上晴れ渡り、まさに我が世の春である。

しかし――祐経には心中、一点だけ曇るものがあった。河津三郎の遺児たちである。

兄は一萬(いちまん)、弟は箱王(はこおう)。彼らは、幼いながらに恐ろしいほどの復讐の念を抱いていると……。

「今は幼くとも、いずれは……」

日に日に膨らんでいく危惧。仇ある身は、常に用心を怠らない。そしてついに、曽我兄弟の身の上に、降って湧いたような恐ろしい災難が襲いかかることになる。

このくだり、曽我物語第三巻と講談の中に詳しい記述がある。ここでは、古式ゆかしい昭和の講談からご紹介しよう。