「いいこと、マイル(イタリア人の癖で先生は"まひる"をうまく発音出来ず、"マイル"と言う)、この女性は命懸けの恋をしているのよ? そんな気の抜けた歌い方では気持ちは伝わらないわ」

でもどうすれば気持ちが籠るのか私にはもう一つ分からない。私は命懸けの恋なんてしたことがないのだから土台無理というものだ。

実は私が日本での中学生時代に歌をやろうと思うようになったきっかけは、アンナ先生のCDを聴いたからではなく、あの不世出の"歌の女神(Diva)"、マリア・カラスの歌声を聴いて心の底から感動したからだった。

『椿姫』(オペラの原題は『道を外した女』)の物語の原作はアレクサンドル・デュマ・フィスである。デュマ・フィスの小説の元のタイトルは『椿の花の女』というのだから誰が訳したのか知らないが、日本名の『椿姫』はずばりその名の通りで、とてもいい訳だと思う。

ヒロインのヴィオレッタは複数のパトロンに金を出してもらい、華やかで享楽的な生活を楽しんでいる高級娼婦(クルティザーヌ)である。

だが若い一途な男に本気で恋をする。そしてその男の父親に息子を返してほしいと哀願されて彼と心ならずも別れ、最後に恋人に看取られながら息を引き取るという、愛と自己犠牲の物語である。

これまでどれだけの名歌手がこのオペラに挑んだことか――。

第一幕の『乾杯の歌』から始まって、第二幕の主人公のアルフレードの父が歌う『プロヴァンスの海と土』、第三幕の恋人同士の二重唱『パリを離れて』など、オペラ歌手が誰しも憧れる、初めから終わりまで歌いっぱなしの珠玉のアリアの詰まった宝石箱だからだ。

『椿姫』が長い間スカラ座で演じられなかったのはマリア・カラスの大成功が原因だったと聞いている。これ以上の『椿姫』はあり得ないからというのが理由だったらしいが、オペラファンにとっては大いなる不幸だった。