私はあの海が忘れられない。
記憶は現実よりも色濃く着色して鮮やかな映像で私の脳には刻まれる。夢にも何度かこの場面は出てきたりしたが、現実として体験した私は確かにいたのだ。
海岸にはおばあちゃんと私、そしてお母さんとお父さんとお兄ちゃんがいる。
「康一朗! あんまり波のそばに行き過ぎるなよ。濡れても知らんぞ!」お父さんがお兄ちゃんに声をかけた。
私が見ていたお母さんたちの姿の向こう側。海岸の先の方から日向子ちゃんが走ってくる。
「ママー!」
おばあちゃんは日向子ちゃんの方に手を振った。
おばあちゃんは駆けよる日向子ちゃんを迎えると、しっかりと日向子ちゃんの手を握った。そして、日向子ちゃんの嬉しそうな声が発した質問に答えている。
「ママ、どうして腕の血管が浮き出ているの? 触ってもいい?」
「うん、いいよ」
元気に歩くおばあちゃんは虹彩が鮮やかで、目には湧き上がる力を持っていた。子供向けだからか大袈裟にも見えるほどに明るい表情で笑う。おばあちゃんに手をしっかりと握られた日向子さんも笑顔でおばあちゃんを見上げているのだ。
「うわー」
お兄ちゃんが叫んだ。
その時だ、海の方に大きなうねりが生まれると、鯨が天に向かってジャンプをした。
「わあ、なに?」私はつい声に出すと、海の景色が一変している。
「飛んだ! 鯨だ!」
雹のように水しぶきが私の顔に降ってきた。水面にもバシャバシャと着水している。痛くはない。巨大鯨が上げた噴気、すなわち潮吹きだったのか。はたまた巨大な体が海面を叩き付けた水しぶきか。
「ザッパーン」
大きな空気のうねりと共に私のところまで届く。
お兄ちゃんは、空の方に手を挙げたかと思うと、海岸の方にすぐ向き直り、何かを必死に拾っている。
私は自分の顔に飛んでくる水しぶきが心地良い。
背景に見えるおばあちゃんと日向子ちゃんも笑顔でいるから、私はその時間がもっと続いてほしいと思った。
了
【前回の記事を読む】「おばあちゃん、また来るね」と言ったけど、おばあちゃんの反応は薄く…。その日から約一ヵ月後に、おばあちゃんは亡くなった
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。