ハナに乗る

当時、この地域(ちいき)のほとんどの農家は農耕用(のうこうよう)に牛を飼育(しいく)していました。

春に桜(さくら)の咲く頃(ころ)、広い田んぼを耕(たがや)して、水を入れて代(しろ)かきをして田植えの準備をするには、牛の働きが欠かせない労働力だったのです。牛は性質(せいしつ)がやさしいし、従順で飼(か)い主の言う通りに働いてくれます。

さらに稲(いな)わらや雑草など、人が食べないものと少量の穀物(こくもつ)だけで飼育(しいく)できますので費用(ひよう)がかかりません。また、牛車を引かせて荷物の運搬(うんぱん)をすることもできます。

ハナが田起こしや荷車引きの仕事をするときは、重い鞍(くら)を背中(せなか)にしっかりと着けます。仕事が終わって家に帰るとき、

「牛に乗ってみるか」とおじいさんが突然(とつぜん)言いました。

純二がびっくりしていると、おじいさんは、

「ハナは特別やさしい牛だから、乗せてくれるよ」と言ってハナの背(せ)中をさすりました。

純二が、「じゃ、乗せて」と応(こた)えると、おじいさんは純二を持ち上げて、牛の背(せ)中の鞍(くら)の上に座(すわ)らせました。

するとハナは後ろを見返してから、「モー」と鳴いてゆっくりと歩き始めたのです。純二は揺(ゆ)れながら落ちないようにと、鞍(くら)にしがみついていました。

初めは怖(こわ)かったのですが、家に着く頃(ころ)には次第に慣(な)れてきて周りを見回すことができるようになっていました。馬を飼(か)っている農家もありました。

純二の知っている限(かぎ)り、馬車で荷物を運ぶ仕事を兼業(けんぎょう)している人(馬車引きさん)が馬を飼(か)っていました。馬の力は牛と比(くら)べるとはるかに強く、細い山道を重い木材を山のように積んで運ぶ馬車は、林業には欠かせませんでした。

馬車馬も春には、田んぼで働いていました。牛と比(くら)べて、馬は倍くらいの速度で鋤(すき)を引いて田起こしをします。首を上下に振(ふ)りながら鼻息荒(あら)く、足で力強く蹴(け)って進む馬の勢(いきお)いと黒光りする馬の姿(すがた)には、人を惹(ひ)きつける美しさがあります。

しかし、後で鋤(すき)を持ってついて歩く飼(か)い主の男は駆(か)け足で、息を切らして辛(つら)そうでした。純二は馬が力強く仕事をしているのを見るのが好きで、時々後をついて歩いていたのです。

「子どもたちは馬が好きだと言っているよ。おばあさん、小型(こがた)馬のポニーを飼(か)ってみようか?」

突然(とつぜん)の提案(ていあん)におばあさんは驚(おどろ)いて、「誰(だれ)が世話をするのですか」

おじいさんは、「子どもたちも手伝うと思うよ。ポニーはかわいいよ」

「おじいさんは歳(とし)を考えて下さい。子どもたちでは無理ですよ」とおばあさんが応(こた)えて、結局ポニーの話はそれまでになってしまいました。

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