第三章 帰郷、営業マン走る!―高度成長期の時代と共に
初めての営業
電話の消毒器を売る
昭和四十六(一九七一)年秋、三十四歳にして、再び故郷の土を踏む。
これまで生きるため、生活のため、そして家族のために働き続けてきた。故郷の熊本に戻れたのは、人生で初めての私の意志による決断であったのかもしれない。
だが、意志はあっても現実はそう甘くない。この先どうやって食べていくか。家族四人の生活をどのように支えていくか。正直、まったくアテはなかった。
しかし今とは異なり、日本は高度成長期の歩みを強くしていた時代である。健康な体と働く意欲さえあれば、どうにかなると、それほど不安には思っていなかった。
さて、どんな仕事をしようかと考えた。もう人に指示されて動くような仕事は嫌だという思いがあった。
できれば商売をはじめたいと思ったが、自分はずっと大きな会社の歯車の一部だったから、一人で自分という歯車を回すには、まだまだ社会経験が足りない。
そして営業で何か物を売るのなら、それなりに人と接するのは好きだったので、まずは営業をやってみようと考えた。どんな物を売る仕事がいいだろうかと探す中で、電話の受話器に取り付ける消毒器の販売の仕事に行き着いた。
当時は各家庭に電話が一台ずつ普及していった時代である。懐かしい黒電話の受話器の口元に近い部分、送話口にセットする消毒薬が流行していた。
電話で話すとき、送話口の部分には唾液がかかって雑菌が繁殖しやすく、またタバコ臭い息がかかって臭いがついたりする。送話口に、消毒薬と芳香剤を含ませた受話器消毒器を付けることで清潔さと快適さを提供する、というのがこの製品の売りである。
これはおもしろいと、東京の会社から大量に製品を仕入れて、各家庭への販売をはじめてみた。やはり経済や消費の最先端は東京であるから、東京で流行ったものが、地方へと派生していく。いち早く東京の動向をキャッチして地方に導入する。
そこに地方でビジネスをする強みがある。今のように都会の情報も地方の情報も、同じように瞬時にインターネットに乗って広まる時代ではないから、知恵と行動力がものをいう。
よし、いけるぞと考えて、ちょうど熊本市内に店舗付きの住宅を見つけて、一階を事務所にし、二階を住居にして仕事をはじめた。
一個百円の製品であったが、月に一回交換するので、お得意さんができれば固定客となって月々の収入は確実に増えていく。慣れない飛び込み営業であったが、予想どおり、熊本市内ではまだ他社の参入が少なくライバルもいなかったので、興味を持つ家庭も多く、順調に販売を伸ばすことができた。
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