日本フェンシング協会元専務理事、(北京・ロンドン五輪強化委員長)張西厚志。東京五輪を終えて間もない8月には、日本人で3人目となる殿堂入りを果たした、日本フェンシング界の今に至るかつての改革を語るうえで、欠かすことのできない人物だ。

今でこそ、他競技の関係者からは「フェンシングの改革は素晴らしい」と手放しで褒められる機会も少なくない。だが、遡ればどうか。

近大でフェンシングに明け暮れ、卒業後は監督に就任したが、「フェンシングでは飯を食えない」と競技の道を諦め、父が経営する大陽産業株式会社、義父が経営するマルハタ産業株式会社で働き、後に妻の芳枝夫人と共に「なんば体操クラブ」を創設した張西が、再びフェンシングの世界へ舞い戻ったのは1995年。

2年後の大阪国体開催への協力要請を求められ、フェンシングから体操へ転身を果たしていた張西に白羽の矢が立った。

だが協会の向く方向は外ではなく、明らかに「内側しか向いていなかった」と張西は当時を振り返る。

「派閥で、内部はバチバチ。みな、残念ながら日本フェンシング協会をよくしよう、フェンシング界をよくしよう、というのが第一やないんですよ。このままじゃあかん、としか思いませんでしたね」

妻の芳枝は国際体操連盟の技術委員や日本体操協会で常務理事、審判委員長としても世界を飛び回っており、日本体操界は数多くの名選手を輩出してきた。五輪でも柔道と共に、日本のお家芸とされ、獲得したメダルの数は個人、団体ともに数えきれないほどにある。