「どうした、寝付けぬのか?」
突然の通る声に驚きで身体が竦み、秋蟬は声が出せなかった。
「今宵は冷える。厠か……遠慮せずに行くがよい」
「…………申し訳ありません」
乾き切った喉を震わせ切れ切れな掠(かす)れ声で答え、動揺を抑え短刀を袖で隠し逃れるように部屋を出た。 板戸を背に堪えていた息を吐き出した時、秋蟬は解き放たれたような安堵の気持ちが胸をよぎった。だが、それはほんの一瞬、この場をいかに取り繕うかに意識が行き、逸る胸の鼓動は抑えられず。
押し寄せる後悔と無力感、首を伸ばし縋る思いで星の瞬きに救いを求めた。薄い衣を透し冷たい夜風が胸を撫でるだけ、逃げることも寝所へ戻ることもできぬ現実に気付かされ、萎しぼむように力が抜けていった。
「早まるではない!」
庭石の陰で銀色に光る短刀を喉に向ける秋蝉の手が、強い力で握り押さえられた。
「秋蝉、張軌の指示で儂を殺すため、側女になったことなど最初から分かっていた。肉親を殺されたそなたの憎しみを張軌が利用しただけ……そなたが命を絶つ必要はない」叱り付ける強い声が響いた。
「閣下に私の悲しみなど分かるはずがありません」
「秋蝉の苦しみ寂しさの総ては分からぬ、だが、心情は理解しているつもり」
「この場で、秋蝉を成敗して下さい」
「張軌にとっては秋蟬の命など虫けら以下、儂を殺すための道具としてそなたを用いただけ、儂を殺しても即座に家臣に殺されるか、張軌に殺されるかのどちらか………秋蝉が死んだからといって亡くなったそなたの親兄弟が戻ることもなく、宦官どもが悲しむこともない、彼らの私欲を満足させるだけの話」
「死は覚悟しています」
「儂はそなたが不憫でならぬ、理由はどうであれ戦乱の中で生き存(ながら)えた命、粗末にしてはならぬ」
短刀を取り落とした秋蝉が突っ伏すように泣き崩れた。
「儂が守ってやる…………」
東の空が薄らと白む寝台の上に、李徳裕の腰に白い足を絡め胸に顔を埋めて軽やかな寝息を立てる秋蝉がいた。
【前回の記事を読む】姑に長安で待つように伝えると、足許にひれ伏し、潤む赤い目で見上げた。予想もしない反応に驚き…