私には、過去の自分、失われた時間、失われた人生が、なにか貴重なものであるかのように感じられてならなかった。
暗闇を照らす松明(たいまつ)のごとくに紅く輝いて、こっちだこっちだと、方向を指し示しているようだ。
私は羨望(せんぼう)した。
あの頃のような濃密な時間を再び経験してみたい、と。
そんな馬鹿な! あの孤独と苦悩と怒りと虚しさしかなかった時代をもう一度味わいたいなんて、ありえない。
見よ、今の自分を。あの頃になかった車、金、女房、子供、マイホーム、全て所有している。
あの頃の自分は空っぽだった。今は満たされている。
それなのに、勝っている気がしないのはなぜか?
全てを得て、そうして負けている。空っぽなのは、今の方ではないのか?
私は車や結婚やマイホームと引き換えに、あの価値ある日々を失ったのではないか?
いや、引き換えた覚えなどない。あの日々は青春の一過性の病であって、時が来れば自然治癒するようになっていたのだ。人はそうやって大人になっていくもの。
だが病の時にこそ、人は価値ある考え、深く濃密な時間を己のものとしたりする。
よしんば過去の自分がそれなりに密度の濃い価値のある時間を送っていたとしても、人は過去に戻ることはできないのだ。
ここで私はひらめいた。私には日記がある。
【前回の記事を読む】悶々、鬱々としていた大学時代 それでも人は変われる、変わることができる。日記に吐き出されたどろどろとした思い……。