二十代の頃ならそんな風に思えなかっただろう。

まだまだ自分が上り坂にいるつもりでいて、恋愛や結婚や仕事、やらなければならないことが山積していた。

しかし三十代も終わりとなり、仕事も生活もマンネリ化してくると、すきま風が入ってくる。満たされているはずなのに、なにか物足りない。

はじめはなにが物足りないのかも、ぼんやりしてよくつかめないでいた。

結婚し、かわいい子をもうけ、小さいながらマイホームを購入し、なにが物足りないのだろうか? 

増えていくばかりの人生に、足りないものがあるのだろうか? 

もっと増やせば満ち足りるのか? 

若作りにはげむ総務課係長の仮面の下に、とまどいを覚えている人生の下降期に入った自分がいた。

私は気づかなかった。増えてばかりいるつもりが、失われているものがあった、ということに。

いつしか心が薄まっていた。生活に追われるばかりで、密度の濃い時間を過ごせなくなっていた。

このことはたいていの大人の男が、多かれ少なかれ人生の途上で味わう喪失感だろう。

食うためだけに働き生活することのむなしさが、知らず知らず心を蝕(むしば)んでいるのだ。家族のため、だけでは覆い隠せなくなる。

だからかつての同僚たちから心の重しをどけてみれば、ラーメン作りだの路上ライブだのといった夢が溢れ出してきたわけである。

私は過去の日記を読むことによって、失われていたものを見つけた気がした。

食うためではなく、如何に生きるか?に全力を傾けていたあの頃、純粋と狂乱の時代。