私はその年の8月に定年にはやや早い退職をしていました。同じ年の2月には母親が100歳の天寿を全うして亡くなっていました。その9月末に突然脊髄梗塞になった妻に付き添うための時間を、最優先させることに悩むことは何もありません。

私は定期券を購入し、ほとんど毎日のように病院に通っていました。その日も通勤のように朝から病院通いでした。

「もうすぐリハビリの時間になるから一緒に見に行く?」

転院してはじめて、妻がリハビリの様子を見学して欲しそうに言葉をかけてきました。私はきっと、ここでの生活がいい方向で進んでいるのだろうと何となく安心です。訓練室に入ると多くの患者さんが、スタッフとマンツーマンで体を動かしていました。

妻は両足の上部まで装具を装着し、理学療法士に後ろから抱えられるようにして歩行訓練をしています。妻の脱力した足は、理学療法士が妻の体を左右に振り回すようにしないと前に動かすことができません。

そんな光景を目の当たりにして本当に衝撃でした。この先どうなってしまうのだろう、どうしたらいいのだろうと、ネガティブな方向に想像がどんどん進んでいきます。先ほど病室で、妻から感じたささやかな安心感は見事に消えていきました。

入院も2か月ほど過ぎた頃です。その年ももう年末を迎えていました。病院から退院を見据えて今後の予定について話がありました。

年を越して春先に退院の予定です。妻はロフストランド杖といって前腕部まで使って体を支持する補助器具を用いた歩行訓練で、自力歩行できるまでになっていました。

また車椅子で院外にリハビリスタッフと出かけることもあると話していました。リハビリは若いスタッフの活気ある雰囲気の中、いつも元気につつまれていると喜んでいました。

私にも何かすることはないだろうか。希望を共にすることができるような共通の目標を持ちたいと、私も退院後の生活についてあれこれ思い巡らしていました。

お互いが手探りで気持ちを確かめ合い、考えていることを伝え合う日々の始まりです。私にはこれまでにはなかった新鮮な夫婦関係でした。

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