四 アメリカ第二の故郷
ペナコックの町に来て間もない頃、戦争花嫁としてコンコード郊外で暮らす日本の女性二人にお会いしたことがあったが、彼女たちもまた当時の日本を楽しげに語っていた。
たとえ年月が経とうとも、自分が生まれた「ふるさと」は変わらないし、「ふるさとにたいする思い」も一生変わることはないだろう。日本での昔の思い出が、この突然訪れた日本人を見たことによってよみがえってきたのだろう。
ビルさんの部屋には、日本の人形や絵が飾ってあった。庭には、なんと日本庭園を模した岩や小石が敷き詰められていた。戦後日本のことをたくさん話してくれたのだった。
中学や高校で、戦争で負けた日本人が、どのような気持ちで戦後の復興を成し遂げてきたのかということを勉強してきたが、当時の日本で、アメリカ軍の軍人の立場でどのような思いで駐屯していたのかということについては、実際に聞いたことがなかったので、「なるほど、そうだったのか。」という反応の連続だった。
今でも、彼は、手紙の中に、かつて聞いたことのある地名や日本語が出てくると、それに言及し、調べたことを書いてくれることがある。ビルさんとベッツィーさんは、すでに仕事を辞め、老後を静かに暮らしている。
この町を去る日が近づいてきた、これまでに合った人たちが、別れを惜しんで、いつもよりも多く食事やパーティーに誘ってくれた。アメリカに来てからの思い出が次から次へと蘇り、そして、この最後の地で終止符を打つ。
思い返せば、いったい何人の人とかかわってきただろうか。何人の人に声をかけ、また、その反対に声をかけられてきただろうか。直接会う人たちだけでなく、手紙を交換してきた人も少なくなかった。
家族や友人からの手紙がどれほどの支えとなっただろうか。同じメンバーからの、夢を語る長い手紙にどれほど勇気をもらっただろうか。アメリカでも、夢を語り、それを実現しようとしていた人に何人にも会った。
こうした思いをしっかりと胸にしまい、お別れを言う最後の人たち一人ひとりにしっかりと「ありがとう」を言った。この「ありがとう」をこれからどんな形で返していこうか。それを考えながら、ボストンから日本に向かう飛行機に乗った。