あとがき

室生犀星の詩が私の脳裏によみがえった。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしやうらぶれて異土の乞食となる

とても帰るところにあるまじや    

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや」

『室生犀星 小景異情 その二』より

かつては、「ふるさとはいいものだ。しかし、帰りたくて、帰りたくてどうしようもなくても、帰れない自分がここにいる。まだまだ帰れないな。帰っちゃいけないな」という思いを持っていた。

しかし、今、「もう、帰ろう!」「ここでもう帰っても良いだろう。」と思った。これまで多くの人と出会い、そして別れてきた。いつまでも心に残っている人たちのことを書かせていただいた。

「清濁併せのむ」という故事があるが、よい経験も、悪い経験も「できた」。「できた」と言うと、なんだか自分の力で成し遂げたという響きがあるが、それはおこがましい。自分の力など微塵もない。「他者の力でここまでこれたんじゃないか。」と思わずにはいられない。だから、「できた」というのではなく、「させていただいた」という感じだ。

実際、アメリカに発つ前、これほどの経験を「させていただく」とは、思ってもみなかった。「ただのアメリカ旅行に行ってくる。」といった具合の気持ちでしかなかったと思う。しかし、実際にアメリカに来てみると、やはりアメリカは、「ただの旅行」では終わらせてくれなかった。

こうした経験は、私自身を大きく変えてくれた。一言で言えば、自分のことしか考えない人間から、ずいぶんと他者のことまで考えるようになった人間になったと思う。アメリカで出会った人たちの気持ちというものを、彼らの顔の表情から、彼らの言動の一つひとつから考察し、彼らは何を伝えてくれようとしているのかをつかみ取ろうとしてきた。

ちょうどあのロッキー山脈を越えようとしたとき、私は変わったように思う。とてつもなく長い時間を一人、バスに乗っていたときに、私は考えた。何を考えたか。それは、これまで私がアメリカに来るまでを支えてくれた英会話スクールの勧誘の女性から始まり、国際交流プログラムの方々、そしてアーカンソー州リトルロックからイリノイ州シカゴに至るまでの多くの人々のこと。そして、美しい大地と空のこと。