隣る人
10年以上前のことですが、児童養護施設「光の子どもの家」の施設長の菅原哲男さんの講演を聞いたことがあります。当時勤めていた大学の「学生相談室だより」のコラムに、この時に受けた印象を書き記したことを覚えています。
この本のタイトルにもなっている「隣(とな)る人」は、菅原哲男さんがルカ福音書10章のエピソード「善きサマリア人」から発想を得た造語で、この言葉が非常に心に残りました。
「善きサマリア人」とは、強盗に襲われた人を、通りかかったサマリア人が応急手当をし、宿屋に連れて行って一晩介抱し、翌朝宿屋にお金を渡し、「足りなかったらまた帰りに払うから」と、名前も告げずに立ち去ったというお話です。
イエスは、強盗に襲われた人の隣人(サマリア人)と同じようにするように私たちに命じたと言われています。
菅原哲男さんは、子どもと関わり、育ちに関与しようと願う者は、このサマリア人のように自分の予定をひとまず変更して、必要な手当てをしようとしなければならないし、どのような困難な状況に陥ろうとも「隣る人」は決して〝逃げださない〞人でいなければならない。そして、思春期までの子どもには、この「隣る人」が必要だと言っています。
子どもは大なり小なり、さまざまな心の傷を負いながら育っていきます。自分の置かれている環境を嘆き、苦しむこともあるでしょう。
でも、そんな時に隣りに寄り添ってくれる大人がいて、その人が自分のことを信じてくれていることが理解できれば、自ら治癒していく力を取り戻し、発揮していくことができるのだと感じています。
だからこそ、大人は〝逃げださない〞という覚悟を持って、自分の都合を優先するのではなく、子どもに必要なことは何なのかを真摯に考えながら、子どもと関わる必要があるのだと思います。
「私は誰かの隣る人になれているだろうか?」とときどき自分を振り返ることがあります。
なかなか難しいことではありますが、少しでも誰かの「隣る人」となれるように心がけていきたいと思っています。
「あなたは誰かの隣る人になれていますか?」
【前回の記事を読む】文学作品にも出てくる葉が冬でも青く(!?)「冬青」と書いて「ソヨゴ」と読む木