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第三章  隣る人

白蓮華の花

民話の駅・蘇民では七月頃に大賀蓮が咲き乱れます。この大賀蓮は縄文時代に咲いていた古代蓮の一種でピンク色をしていますが、仏教ではブッダの教えを白い蓮の花に例えることがあります。

与謝蕪村は「この泥があればこそ咲け蓮の花」と詠み、白蓮華のような美しい人生とは、泥のような悲しみや苦しみを乗り越えた人生であると述べています。逆に言えば、泥のような悲しみや苦しみがなければ、美しい白蓮華は咲かないのかもしれませんね。

それを親鸞は、「苦しみや悲しみをしっかり見届けながら乗り越えて、自分の人生を生きた素晴らしい人を白蓮華のような美しい人(分陀利華・フンダリケ)」と称しています。苦しみや悲しみは人生につきものですから、みなさんもたくさんの苦しみや悲しみを経験していることと思います。

いつも脳天気に生きている私にも人間関係がしんどい時期がありました。この苦しみを見届けながら乗り越えることができたらと思い奮闘しました。「悪口や批判は栄養にするのですよ」と教えてくれた人もいました。

でも、ブッダの「嫌な相手や敵からの仕打ちがどれほどでも、邪(よこしま)な心がもたらす害にはおよばない」という言葉があるように、相手を正しくない心で見てしまうことの害を感じるようになり、その場から立ち去る判断をしたこともありました。自分自身が邪(よこしま)な心を持っていることを自覚することで、自分を責めてしまっていましたから。

それからというもの、一緒にいて心地よい人としか接しなくなりましたし、やりたい仕事しかしなくなりました。違和感を持つものからは離れるようにしています。泥を避けて生きているような気もしますが、邪(よこしま)な心の種を自分で蒔くことのないように心がけています。それでも、被害者支援をしていると苦しみや悲しみに自ら入っていかなければならない場面も出てくるのは確かです。

最近思うことは、苦しみや悲しみに直面するようなことがあれば、それをしっかり眺めて、味わい尽くして、堪能するぐらいの余裕を持ちたいと考えています。また、嫌な相手や敵からの仕打ちがどれほどでも、どのような毒を盛られても、それを浄化して相手に差し出せるようになれたらどんなにステキだろうと思うようになりました。

そういえば、美しい羽根を広げる孔雀は毒ヘビやサソリを捕食することができるようです。美しい姿と毒に高い耐性を持つ孔雀に白蓮華と通じるものを感じます。悪を善に変えていける、毒を薬に変えていける、泥の中にいてもフンダリケとして気高く咲き誇っていられるようになれたらと思う今日この頃です。