もし縮むということが、基準としての物差しそのものが変わるということであるのなら、例えば10センチ程度にまで縮んだその進行方向に沿うように放射された光は、相当に遅くなるはずだ。つまり内部の人間にとっての秒速30万キロメートルは、外部の人間にとっての同じ速度よりは遅い。しかし時間の進みが遅いと先回りして決めてあるのだから、これで何となくつじつまは合う気がする。
ローレンツ変換式から時間の要素のみを抜き出してみると、Δt’=Δt√(1 v²⁄c² )となり、ここで移動する者の時間Δt’は静止状態の時間Δtにルート以下の式をかけた値になるということを示す。cとvが同じ数値ならば、11イコール0で、それを時間が全く進まなくなるということと考えれば(それが物理学や数学の上で無意味であるとかいう理屈はあるのかもしれないが、わかりやすくする手段である)、移動者の速度vがcに近づくほど時間は遅く進むという意味をこれで読み取ることができる。
同様に移動者の長さL'はL√(1 v²⁄c²)だ。一見して同形であり、つじつまが合うのも道理だろう。内部の光は確かに遅くなるが、その分長い間飛ぶことができるので同じ距離を稼ぐことができる、という意味になる。ところでこれは搭乗者の視線で完結した、あくまで船内の光をもとにした話である。
すると、最初の直感、外の光より、内部の光は相当遅いという話はどこに消えてしまったのか。この縮んだ宇宙船が10光年先の天体を目指すというとき、距離がべらぼうに遠くなる。内部の光は遅く、それに従って時間の進みも遅い、と聞かされた時、まず考えるのはこの宇宙船はとても10光年向こうを目指しているとは思えないほどのたくらと動いているということではないだろうか。
たぶんこれには1つの返し方があって、逆に移動する宇宙船から見た場合外部の観察者が動いていることになるはずだから、目的地自体が近くなるというものだ。外部の観察者は宇宙全体を固定した1個の系とみている、という解釈になる。これに、内部の視点と外部の視点を混同させてはならない、という注釈がつく。外部の視点で、宇宙船自体の進みが遅いと指摘することは無意味であるという主張である。
これで、進みの遅い光と、それに応じた宇宙船、そして小さな外部世界という完結した世界ができ上がった。そして一方に我々が通常考えるところの速度を持った光と、それに応じた広い世界が存在する。こちらもそれ自体で閉じた理論空間だ。
【前回の記事を読む】移動者視点での光速度と傍観者視点での光速度が一定であると主張する方法論とは?