いろいろなスタンスがあると考えられる。
例えば、「できるだけ老いを認めない」という姿勢。つまり、いつまでも若さに固執し、活動的な生活を捨てようとしないこと。実際にこういう方は多いようである。
決して否定するものではないが、この場合、注意しなければならないのは、その求め方である。
釈尊も次のように懸念を示している。
「『自分はこれを成し遂げた。これをしたならあれもしなければならない』とあくせくしている人々を老いと死が粉砕する」と。
「必要以上に自身の若さを追い求めること」「老いを否定すること」に対する1つの戒めととらえるべきだろう。
やや逆説的にはなるが、老いを受け止めながら、これまで培ってきた「智慧」をもとに新しいチャレンジをする。
「古い切り株に新しい芽が育つ」がごとく、老いを認め、そこから新たな老いを創(はじ)めるという姿勢も必要であると考える。
一方で「隠居(いんきょ)」という姿勢もある。
つまり完全に老いを認める一方で、これまでの仕事から身を引いて、悠々自適な生活を楽しみ、晴耕雨読のごとく、多くある時間を自分の趣味などに費やす生き方である。
一見、不安のない、うらやましい人生の送り方のようにも思われるが、意外とそうでもないようである。
自由気ままな日々を送ったとされる良寛でさえ、「何ごとを営むとしもなけれども 閑(しず)かにくらす日こそすくなき」としている。
注意しなければならないのは、「隠居」は「死に向けてのモラトリアム」ではないということである。むしろ、人生における1つのターニングポイントとして、よりアクティブなとらえ方をするべきであると考える。
大切なのは、「老いを受け止める」ということ。ただ決してネガティブであってはならない。老いにしたがい、老いを毛嫌いするのではなく、自分のものとして受け止める一方で、自然体でさらに新しい老いを求めるという姿勢が重要である。
以上 参考:生老病死「生活の中の仏教」◆老いに対する態度◆◆レジャーと隠居◆ http://hotokuji.com/syoroubyourosi.html 2022年7月14日閲覧
【前回の記事を読む】高齢期という人生の折り返し地点の生き方を「古代ローマ時代」の視点から考察