若さの回復、だがどうしても埋まらなかったジグソーパズルのピースが見つかった時、インスピレーションが訪れる。彼は嘘から解放され、奇跡の在りかを模索する権利を得る。

そして、ついに反抗的であったこと、協調性に反していたこと、また本能的ともいえる、慣習や論理性にしばしば反する一見不条理な行動が、実は芸術的なまでに一本の線でつながる可能性があることを知るのである。

この驚愕は、しかし日常に散見される、個の基準であるべきものを社会との取引材料に使った大人たちが嵌まる陥穽の矛盾を見事についているのである。

自己愛に代表されるような利己的な言動及び感性の鈍化は、その個が学業優秀で容易に承認される立場にある時には尚更のこと、自己判断能力の欠如による反動的行為にそれはつながりやすいのである。このようなサイコパスとも呼ばれることもある輩に、私も彼も十分に注意しなければならない。

そして今、回帰は偶然と必然とを実に巧妙に引き連れて彼に人生最大の決断を迫りつつある。彼は彼の同級生のほとんどが属していた共存派との決別を選択するために、相応しい領域を「個性=存在」に与えなければならない。ここではそのための基準が、時間ではなく空間によって計られることとなる。いったいここに辿り着くためにどれほどの時間が流れたのだろうか。

自由とは空間によってこそ必然の価値を獲得する。無常が否定された以上、自由主義者の終着点は空間の中にしかないはずだ。それは芸術家にとってのアトリエやスタジオのように、「許可なく立ち入ることを禁ズ」のいわゆる聖域。もはや時間は彼にとっては単なる物差しに過ぎず、年齢により生じる障害のすべては急速に意味を持たなくなりつつある。

愛とは?

永遠

神を信じるか否か?

イエス

おそらくそう言えるのであれば、その瞬間、私たちは信徒としての資格を得る。原始と文明の融合により生じるものは、未来ではなく回帰。だから、若さの喪失が始まってこそ、私たちは時間の制約から解放されるのだ。