第一部 認知症になった母の人生
第4章 いよいよ同居が始まった
焼き鳥パーティで大盛り上がり ある日突然
2015年9月15日。19時頃。帰宅するといい匂いと、談笑が満ちあふれていました。なんと、お母さんと妻の妹(次女)そして妻の三人の焼き鳥パーティが盛り上がっていました。女系三人、当たり前ですが、よくみるとどこか似ていると改めて思いました。妻がいいました。
「まもちゃん、お帰り。ま、一杯やんなよ。あいかわらず宮代(焼き鳥屋=肉屋の屋号)の焼き鳥はうまいでござる」
本当に明るい家族だとつくづく思いました。そして衝撃の一言
「まもちゃん、今日からばあばあは同居するから」
頭を回る「???」。
何を言っているのか、把握できないでいました。
私がどのように応答したかの記憶が定かではありませんが、こんなに早くこの事態が訪れたことに若干の落ち着きのなさがありました。
満面に笑みをたたえる母。そしてその子どもたち。そのとき、私ができることを大切にしてゆく、そんな微かな覚悟を抱いたのかもしれません。
介護はある日突然です。生老病死は人間の思惑とは全く違う次元で動きます。ですから、人間がこれらの「聖なる領域」の主導者になれるなんて思い上がりの極致ではないかとさえ思います。
私は自分の母を母が52歳で亡くしました。そのとき神を憎んだものです。でもそのつらい経験を通して、私がどれほど成長したかは自分が今よく分かります。
親というのは「命を賭して、子どもの成長を図ることもするのだな」と少しずつ考えることができるようになりました。
こんなことを言った詩人がいました。
「人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある」1
今回の突然の“訪問客”も、私に何かを問おうとしているに違いない。
その詩人は次のように続けます。
「かつて日本人は、『かなし』を『悲し』とだけでなく、『愛し』あるいは『美し』とすら書いて『かなし』と読んだ。」2と。
私の母の死も妻の母の認知症も一見すると「悲しさ」以外何ものでもないように見えますが、でもその姿になにがしかの「愛」「美」を感じさせる“向こう側”からのメッセージがあるかもしれないとふと感じるのです。私からの問いかけではなく、他者からの問いかけにこちらはただ「応答する」だけです。