大将軍の下宿には学生が誰もいなかった。階下の駐車場に原付や自転車が一台もない。土曜日の午後を一人下宿の中で過ごすのも、まあいいじゃないか。

夏生は生温かい部屋に入ると座机に向かって『徒然草』を開いた。机の上には昨夜買った一リットル瓶のコーラ。まだ半分近く黒い液体が残っている。スクリューキャップを回すと、プシュッと炭酸が抜ける音がする。ラッパ飲みで一口含むと、コーラが口の中で膨張した。夏生の部屋には冷蔵庫がまだない。

文庫版の『徒然草』は、全二四三段の三分の一ほどが収められていた。原文を読み、口語訳を読み、語彙の注釈を読む。収められた最後の段を読み終えた時は、すっかり夕方になっていた。彼女が気に入っているのはどの段だろう。楽し気に話し合う二人を思い浮かべてみた。チャンスは来るさ。徒然草の話をしたいのか、美人の徒然草と話したいのか。本心はどっちだ。

夏生は本を閉じ、夕飯を食べに出かけることにした。そういえば、今日は『徒然草』以外何も体の中に入れていないことに気付いた。天国飯店へ行こう。明後日の月曜日からは、一人でアルバイトに入ることになっている。

 

月曜日。午後四時半に店に駆け込んだ時、客は誰もいなかった。独り立ち一日目から遅刻してはならぬと下宿から走ってきた。五分間は走っただろう。額にはうっすらと汗が浮かび、息が荒くなっている。

「走ってきたんかいな。何も慌てんでもええがな」

おっちゃんは笑いながら夏生を迎えた。アルバイト開始は午後五時。それまでの時間で夕飯をとる。賄いの夕飯はアルバイト生が自分で作ることになっていた。よれよれになったジーパンに白いTシャツの夏生は店のゴム長を履き、持参した長めのタオルで髪を覆った。

夕飯を何にするかは店に向かう道中、走りながら決めていた。これまでのアルバイトでおっちゃんが調理する姿をじっと見つめて三、四種の料理の手順を頭に叩き込んでいる。今日はその中の一つ、炒飯を作る。

頭の中で炒飯を作るおっちゃんを映画のように想い描くことはできるが、実際に鍋を振って食べ物を作ることは全く別の作業だとは分かっていた。炒飯はよく出る。バイトさんも簡単な料理は作れるようにしてやとおっちゃんから言われている。まずは炒飯だ。