「遅いぞ、道林坊!」

「申し訳ござりませぬ。遅くなり申した。これ、弁之助! 謝りなさい」

道林坊が振り向くと、弁之助は謝る素振りすら見せず、いきなり喜兵衛に向かって突進した。五尺以上あろうかと思われる木刀で殴りかかった。不意を突かれた態の喜兵衛であったが、さすがに身体を開いて躱すや、太刀を抜いた。

髭面の喜兵衛は身の丈五尺七寸ほどのがっしりとした偉丈夫であり、歴戦の強者(つわもの)であることが見て取れる。

渾身の一撃を躱された弁之助は、喜兵衛の構えを見るや、何故か持っていた木刀を捨て柔術の構えを見せた。これは養父・無二斎の下に時々来ていた竹内流柔術の竹内中務坊(たけのうちなかつかさぼう)(竹内中務大輔久盛(だゆうひさもり))の柔術を見様見真似(みようみまね)で覚えたものである。

喜兵衛は、十三歳にしては大柄であるが、素手の子ども相手に真剣を振るうわけにもいかず、刀を収めた。これを見て、(しめた)と思った弁之助は、素早く喜兵衛の懐に飛び込みつつその左腕を手繰り寄せるや、喜兵衛を横向きにさせその左脇の下に頭を入れ、喜兵衛を後ろ向きに投げつつ諸ともに倒れ込んだ。

これが、いわゆる『厳石下(がんせきおとし)の技』である。したたかに右肩と背中を打った喜兵衛の起き上がるのが遅れたところを、弁之助は捨てた木刀を拾うやその頭を滅多打ちにした。

刀を構えたときの喜兵衛の剣客として発する凄みを感じ取っていたため、もし起き上がってこられたらと恐ろしかったからである。

喜兵衛がもう起き上がることはないと確信し、安堵の気持ちが湧いてきて、武蔵はふと頭を上げた。すると張り巡らされた縄の外には、ぞっと顔を引きつらせ敵意さえ窺わせる非難の眼差しが満ちていた。

人生初の立ち合いに勝利を収めた弁之助であったが、この後、弁之助は平福にいづらくなってしまった。

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