ベスト・オブ・プリンセス

母の両親、すなわち私の祖父母は小学生の時までにふたり共他界しているため、母が向かう場所に実家という選択肢はなかった。さらに母には兄弟姉妹もおらず、親戚付き合いも昔から乏しかったため、地元に帰ったということも考えにくかった。

その年の正月、私は実家への帰省をしていなかった。仕事が忙しく、十分な休みを取れなかったこともあるが、その前の年の盆に帰省した際に見た、早朝パート前の母が、まだ寝室で寝息を立てている父の食後の服用薬を丁寧に朝食の横に用意する姿に、絶望してしまったからだった。

父はわかりやすく疲弊していた。彼にとって、母の存在は死が訪れるまで消えない不滅の存在であり、日常そのものだったのだろう。それが失われつつある今、父は赤子同然に無力であると感じられた。

「実は、夜中に母さんからメールが来たんだ」

そう言って父は、自分のスマートフォンでたどたどしくメッセージ画面を開き私に寄こすと、ため息を吐きながら椅子に座った。

母と父のやり取りは、前日の夜二十時に父が送った、母の帰宅時間を問うメッセージから始まり、その後一時間後には七回の父からの発信履歴、「何かあったのか?」「遅くないか?」という既読無視された二通のメッセージの後に、深夜三時に母からの「無事だからしばらく放っておいてください」という文面を最後に終わっていた。母が時折表に出す、すべてを諦めたかのようなあの冷たい声が、聞こえてくるようだった。

「とりあえずお父さん、ちょっと休みなよ。顔色も悪いし、土日明けにも病院行った方がいいよ」

「ああ、でも、それより警察にも……」

「一応連絡は取れているから、今警察はやめておこう。まともに取り合ってもらえるかわからないし、お母さんも戻りにくくなっちゃうかもしれないから」

「そうか、わかった」

虫のようにか弱い父の声を遮るように、私は淡々と、尚且つ力強さを意識して父を説得した。そうしなければ、耐えがたい不安と孤独が、私の全身に伝染してしまいそうだったからだった。

「困った、どうしよう」

帰り際、自分の保険証の在処がわからないという父に呆れつつも、私は母がよく大事な書類などを保管していたリビングにある引き出しの二番目から保険証を探し当てると、父は無言でそれを私の手から受け取った。

玄関で靴を履く私の背を、父の苦痛なつぶやきが撫でまわしたが、それを無視することしか、私にはできなかった。