優子はアパートを行き過ぎてしまった。慌てて引き返す。部屋に入ると聖を抱いたまま思わず玄関にしゃがみこんだ。お風呂、おっぱいすこし、それからねんね―もう一度口に出して言ってみる。油淋鶏(ユーチンリー)をベビーカーに忘れてきてしまった。

むずかる聖のおしめを変え、部屋着に着替えさせ、冷蔵庫に用意していた離乳食をレンジで温める。いつもはあれこれ話しかけながら食べさせるのだが、優子は黙って息子の小さな口にスプーンを運んだ。食べ終えた赤ん坊の口まわりを濡れたガーゼで拭ってやりながら、唇だけの動きで「だいじょうぶだからね」と話しかける。

ベビーベッドに赤ん坊を寝かせてようやく、帰宅したら一番にするつもりでいたことを優子はした。慎の携帯に電話をかける。呼び出し音が十回鳴ったところで電話を切った。

そこで初めて、どう夫に伝えようかと思案した。事実をありのままに言う以外ないのだが、それでも途方に暮れてしまう。慎は新しい家族だ。古い家族ではない。古い家族が抱えているもののために、慎の両親から結婚を反対された。

お腹に聖がいたから最後は折れてくれたが、優子は結婚が決まったとき、夫の実家が忌避したものをぜったいに新しい生活には持ち込むまい、と自分に誓った。その禁を破らなくてはならない。

ふいに、死んだばかりの母親へ怒りが込み上げてきた。

電話が鳴り始めた。優子は考えをまとめられないまま受話器を取った。

「なんだ?」

のんびりした夫の声がした。

「あのね、今夜は残業とか、する?」

「うん、二時間の残業届を出してるけど。なんで?」

「それ、取り消して。早く帰ってきて」

「どうして? なにかあったのか?」

優子は大きく息を吸い込むと、ほとんど叫ぶように言い放った。

「おかあさんが自殺したの!」