後醍醐天皇も、また、隠岐の島を脱出し伯耆に辿り着きました。
ここにおいて、全国の勤王の多くの兵が立ち上がり、ついには京都を取り戻すと、千早城を囲んでいた敵兵も逃げ去り、後醍醐天皇は京都の御所に戻ります。
正成は、その時、兵隊七千を率いて、兵庫において陛下をお迎えし謁見すると、陛下は親しく正成の苦労を労ってから言います。
「大きな事業が素早く成し遂げられたのは、全て正成の力のお陰である」
正成は拝礼をして言いました。
「全ては陛下の御威光によるものです。臣下の私が敵の囲みから出て、今に至るのは、陛下のお力のお陰です」
正成は陛下の一行を先導して、京都に入りました。
延元元年、足利尊氏が反乱を起ここして京都御所に攻めてきました。
正成は策略を使って敵兵を何度も破りました。
すると尊氏は、西海に逃げ去り、その後、多くの兵を集めて京都を攻めようとします。
正成は陛下に進言しました。
「敵兵は九州の兵を集めて京に向っています。勢いは必ず大きくなります。我々の兵は、先の戦いで疲れており、これらの敵兵から都を守るのは困難です。陛下は一旦、山門に逃れて頂き、私が河内に戻り、畿県の兵を集め、敵の物資を運ぶ道を分断して敵兵が疲れるのを待ち、関東の義貞と前後から挟んで攻めれば、敵軍を倒すことが必ずできます」
陛下の側で仕える藤原清忠は、陛下が比叡山に逃れることを望まない気持ちを支えて、京都に留まることができるよう、正成が都の外で決戦すべきであると訴えました。
陛下は、その言葉に従うことになります。
正成は、その場から立ち去り言いました。
「事は決まってしまった。どうすることもできない」
正成は弟の正季、子の正行と共に御所において、陛下に出発の挨拶をしてから西に向い、桜井の宿町に到着しました。
正行は、その時、十一歳でした。正成は正行に対して河内に帰るよう言います。
「お前は幼いけれども、よく私の言葉を記憶しておきなさい。これからの戦いは世の中を平和にするか、もしくは危険にするかを決める戦いになるだろう。私の考えでは、もう、お前に会うことはできないだろう。私が死ねば、世の中は足利氏の天下になるだろう。
お前は慎重に世の中の動きを考え、利益ばかりに囚われ、義を忘れてしまい、父の忠の心に傷つけることがないようにしなさい。仮にも、一族が一人でも残っていれば、お前は、その者たちを率いてから千早の城を守り、身を尽くして国のために働きなさい。国のために命を懸けて尽くすべきであり、お前が父に報いるのは、この他はない。お前に私が伝えたいのは、この一点だけだ」