冬輝を覆っている霧がうっすらと晴れてくると、これまでの凍りつくような恐怖はたちまち消え失せ、代わりに煮えたぎる溶岩が全身を焼き始めた。
「そんなの嘘に決まってるでしょ! 私を信じて!」
感情のままに携帯電話を握り締めると、耳元でみしりと音がした。絶対に負けるわけにはいかない。ここで正体不明の悪意に屈してしまえば、奈落へ突き落とされることは目に見えている。
「信じたさ。だから僕は妊娠の事実を知っても、これまでの生活を変えなかった。でも間男からの逢い引きの報告は、爽香がパブを辞めてからもずっと続いている。決まって爽香が外出している時間にね。これがどういうことか、説明してくれないか」
「そんなありもしないこと、説明できるわけない。そもそもその間男は、どうしてあなたに報告するのよ」
「理由はある。僕たちを別れさせて、爽香を堂々とものにしようと企んでいるんだ」冬輝はそう言い捨てると、弱々しい鈍色の溜め息を漏らした。
「奴のメッセージはいつも、爽香の尻軽を見せつけるような内容ばかり。煽られて逆上すれば、間男の思うつぼだってことはわかってる。だから僕は、ずっと見て見ぬふりをしてきた。でも本当は、万に一つの真実が怖かったのかもしれない。拒否できなかった。着信を拒むことも、未読のまま消してしまうことも……」
灰色にくすんだ窓外から、ばらばらと乾いた音が押し寄せてきた。真っ白い雹(ひょう)の粒が、ベランダで盛大に躍っている。
「爽香に残された道は二つだ。真実を打ち明けて謝るか、それとも徹底的にしらばくれるか」
「間男なんていない! お腹の子は、私たちが夢見たかけ替えのな……」
冬輝の重たい声が割って入って、語尾を押し潰す。
「どうしても認めないんだな。でも、メッセージを書いている人間がいることは事実だ。せめて謝ってくれれば少しは考えたけど、この期に及んで無実はないだろう」
「やってもいないことを認められるわけないじゃない!」
冬輝の失笑が、耳の奥をひやりと撫でる。こんな状況で笑える人だったなんて、とても信じられなかった。
「押し問答はしたくない。だから僕は黙って家を出たんだ。それにもし、爽香の主張が正しかったとしよう。それでも爽香は、絶対に僕を納得させることはできない。なぜなら、無かったことを証明する方法はこの世に存在しないから。わかっただろう? 僕は爽香と一緒にいる限り、永遠に間男の呪縛から逃れられないんだ」
確かにその通りだ。どれだけ手を尽くしても、間男がいないことの証明はできない。自称間男のずる賢さを呪わずにはいられなかった。当然出ると思っていた涙は、いくら待っても滲む気配さえなかった。ベランダを埋め尽くしていた雹の粒が、いつの間にか胸の中にも降り注いでいる。すべてが粉々に砕け、そこらじゅうに弾け飛んで、色も匂いも残さず綺麗さっぱり溶けていく。
【前回の記事を読む】妊娠を報告した彼は何故か戸惑っていた。段々と帰りが遅くなり、そして…