Ⅰ 東紀州 一九八七 春
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紀伊半島の南部に位置する東紀州地域の小さな田舎町。人口が六〇〇人ほどの「中牟婁(なかむろ)地区」が僕の故郷である。
母は父が五十八歳で急逝した以後も、自らが生まれ育ったこの地区で一人暮らしをしていた。当然僕も高校を卒業するまでこの地区で育ち、高校生の三年間は学校のある近隣の鷲羽市まで列車で通学をしていた。昭和五○年代の初期の頃である。家の二階の窓からは、北山の中腹に小さな駅が見える。
「佑! 早うせんと汽車がくるで!」
母親の声を背に、駅への坂道を全力で駆け上がる。毎日のように発車時刻ギリギリに一番線ホームに走りこんでいると、「今日もギリギリセーフやな。列車だけは停めたらあかんで!!」顔見知りの駅員によく注意をされた。
当時はそんな小さな駅でも、今のような無人駅ではなく、ちゃんと駅員が常駐していた。プラットホームは上りと下り線の二つのホームが使用される伏線で、列車は上下線ともに二時間ほどの間隔で発着していた。
因みに、僕が中学三年生の時に国鉄のスト権ストが実施され一週間ほど列車が止まった。当然その影響で高校は休校となり、生徒は喜んで自宅待機を受け入れた。
TVニュースを見ていた母は、「今日もストは解除されんらしい。一体国鉄は何をやってるんやろ。国民のこと何にも考えてへん。こんなことばっかりやってたら、国鉄もその内に潰れるで」
それを聞きながら(早く高校生になりたい!)と羨ましく思ったものだ。国鉄の労働組合が全盛期の頃である。