一九四七(昭和二十二)年、兄・恵介は辻堂の駅近くに、松竹から借金をして家を建てた。病床の母・たまと父・周吉を一刻も早く引き取るという、どの兄弟にもできない最大の親孝行を成し遂げたのである。

恵介はやはりすごい兄であると、八郎は改めて感服した。監督業に忙しいそんな恵介から、辻堂に来て手伝いをしてくれないかと頼まれたときは、藁をも掴むような思いだった。

政二のために働いたときのように、今度は恵介のために一生懸命に働こうと思った。同時に、政二の窮状を救えるのは、この兄しかいないとも思ったのである。八郎から政二が結核に罹り、家族がバラバラになりそうなことを聞いた恵介は、優しかった兄を想い、すぐに手を差し伸べた。

政二を大船の病院に入れ、義姉・房子が熱海の旅館に住み込みで働くために、下の二人の子武則と忍(筆者)を、八郎が世話をするという条件で辻堂に連れて来た。長男・誠司と武則と双子の一人次男・廣海は、房子の実家長崎に預けることは、政二夫婦の話し合いで決まっていた。

辻堂で過ごした忍の記憶は曖昧だが、八郎がそばにいてかわいがってくれたことはよく覚えている。平仮名やカタカナ、算数を教えてくれ、ディズニーの『バンビ』や『ダンボ』の映画や、遊園地、夏には辻堂の海へ海水浴に連れて行ってくれた。

祖母のたまが、一九四八(昭和二十三)年十月十三日に亡くなった。恵介は、この日松竹京都撮影所で島崎藤村の『破戒』を撮影中だったため、とんぼ返りで、最愛の母の死に立ち会うことはできなかった。

八郎が使い走りなど何でもよくやってくれていたこの頃は、恵介は長いロケにも安心して出かけられ、映画製作に一層の力を注いでいた時期と言える。武則と忍は八郎だけでなく、祖父・周吉や安子、和司にもかわいがられ、恵介も家にいるときは、小さな二人の子供の仕草に癒された。

恵介は結婚を望むことはなかったが、男の子を自分の子にしたいという気持ちがあった。幼い武則がそばにいて懐くようになると、かわいいだけでなく聡明なところがあることもわかり、武則を養子にしたいと思う気持ちが強くなった。

武則といつも一緒にいる忍も、揃って養子にすることになった詳しい経緯はわからないが、一九五一(昭和二十六)年十二月八日、武則八歳、忍六歳のとき、養子縁組の手続きを取って恵介の籍に入った。恵介が初めてのヨーロッパ旅行に出かけた一か月後のことで、八郎が政二と房子の書類を添えて、藤沢市役所に届を出している。

その一年半後の一九五三(昭和二十八)年五月六日、七十六歳の父・周吉危篤の連絡を受けると、映画『日本の悲劇』撮影中の恵介は急いで家に戻り、木下家の兄弟たちとともに、周吉の最期を見送った。享年七十六歳であった。

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