第一部

六男 八郎 ── 親愛なるわが父

両親はこの八郎の申し出に戸惑いもしたが、やりたいことをやらせることにした。

八郎は市役所に満州への渡航申請に行った。剣道三段健康体の八郎に担当者は、二十歳になって徴兵検査を受けるまでは海外に行ってはならないと、受け付けてもらえなかった。

仕方なく、沼津にある鉄くずを集めている従業員が二百人はいる大きなボロ屋、「渡辺商店」に就職した。

二十歳になった八郎は晴れて甲種合格、父母や兄・敏三、妹たちに見送られて中国大陸へ兵士として向かった。五年間の兵隊生活は、八郎の性格ゆえに波乱に富んだものだったが、その内容はここでは割愛する。

兵役を終えて現地除隊となった八郎は、「木下洋行」を手伝ってくれないかという兄・政二の手紙を読み、自分を信頼してくれたことが嬉しくて、日本には帰らずに徐州へと向かった。そこで、初めて兄嫁・房子に出会ったのである。そのときの気持ちを詠んだのが冒頭の「初恋」である。

八郎は敗戦の困難期を含めて、政二の家族と足掛け四年間をともに過ごした。政二の家族の一員として兄を助けて働き、終戦後すぐに生まれた忍(私)を入れて、四人の幼子をかわいがって過ごせたことは、八郎にとっては、初恋を忘れさせてくれるほど貴重な思い出となった。

引揚げまでの日々を振り返ると、兄夫婦が自分を信頼し、頼りにし、大切に思ってくれたことが嬉しかった。誰かのために必死に生きることの素晴らしさを、初めて知ったのである。

引揚げ後の日本での生活は、そんな貴重な思い出をズタズタにするほど、厳しく惨めなものだった。兄・政二が、再起することができず結核に侵されていく中で、八郎より三歳下の義姉・房子が働き出した。 

実家の「尾張屋」が焼失し、跡形もなくなった浜松に立った八郎は、何の力もない自分が情けなかった。ボロ屋になって大金持ちになるなどと息巻いていた十八歳の自分は、「尾張屋」という後ろ盾があったからだと気づくのである。

級友を頼った働き口で日銭は稼げても、政二の家族の窮状を救うことなどできず、悶々とした日を過ごしていた。